「二つの大乗の道の浄化」
◎二つの大乗の道の浄化
はい。「このような過失に陥らないように、パーラミターヤーナとマントラヤーナの二つの大乗の道を浄化すべきである」と。
この間ちょっとやりましたが、言葉の勉強としてね、パーラミターヤーナっていうのはつまり、一般的な大乗の教えっていうことです。マントラヤーナっていうのは、マントラヤーナも大乗なんだけど、密教的な大乗の教えっていうことです。
教えっていうのはつまりね、もう一回基礎的なことを言うけども、大きく分けると小乗と大乗に分かれますよと。もちろんこれは大乗仏教側の見解だけどね。小乗といわれる人たちは、自分たちを小乗とはいってないんだけど(笑)。大乗から見るとまず、教え全体は小乗か大乗に分かれます。これはもう目的の違いです。小乗っていうのは、ここでいう小乗っていうのは、自分の悟りだけを目指す人たち。つまり自分がこの輪廻からおさらばして、早くニルヴァーナに入っちゃいたいんですよっていう、これが小乗ですね。大乗っていうのは、そうじゃない。みんなを救いたいっていうことだね。わたしだけじゃなくてみんなをこの輪廻から救って、本当の幸せをみんなに与えてあげたいと。でもそのためにはわたしは、今のわたしでは全く力不足だと。そんな理想だけあったって、「みんな幸せになってほしい!」っていう理想があったって、全く力不足だと。じゃあどうすればいいのかと。
まあ、社会的救済を考えるなら――社会的救済というのは、社会をよくしていきたいって思うなら、まあ政治とかに出て権力を得て、社会をよくしていけばいいかもしれない。でもそうじゃなくて、精神的に、みんなの心をこの輪廻の苦から救いたいって思うんだったら、自分自身が仏陀になるしかない。つまりお釈迦様のように、仏陀になって神秘的な力――あるいは実際に自分が悟りを得ることによって、その悟りをみんなに解き明かす。そこまでいかないと、みんなを本当に救うことはできない。よって、わたしは仏陀を目指すんだと。これが大乗の志です。
だからまあ、あくまでも例えとして言うと、小乗っていうのは小さな山を目指す。つまりこれは自分だけの道だから、小さな山でいいんです。小さな山の頂上まで行っちゃえば、自分は幸せになる。でも人への影響力はない。しかし大乗というのは、巨大な富士山みたいな、あるいはヒマラヤみたいなところの頂上を目指す。そこまで行かないとみんなを救う力はないんだと。まずこの小乗と大乗の違いがある。
で、じゃあ大乗のやり方――ここでまた一般的な大乗と密教の違いが出るんだね。これはさっき言った、じゃあどうやって上りますかっていう教えのことなんだね。一般的な大乗っていうのはつまり、普通の山みたいになだらかなこういう山をめぐるような道を作って、まあもちろんなかなか大変ではあるけども、無理のない感じで、時間はかかるけども確実に頂上に到達しましょうと。これがパーラミターヤーナといわれる、大乗の道ですね。
で、マントラヤーナといわれる密教の道は、さっきも言ったように、道なき道を行こうと。つまり崖とかジャングルとかいろいろあるけども、素晴らしい導き手がいると。つまり山登りのプロが引っ張ってあげるから、君はこっちを行こうと。こっちの方が一直線だから速いと。しかし、この山を登ろうとしてる人は初心者です。つまり一度も山を登ったことがない。それはそうでしょ。過去に別に仏陀になったことはないわけだから。山を登ったことがないんだが、その導き手を信じて、道なき道、断崖絶壁とかを登っていく道――これがマントラヤーナだね。
だから目的は同じなんです。方法が違うのがマントラヤーナとパーラミターヤーナ。
で、そもそも目的自体が違うのが、小乗と大乗の分け方なんだね。
◎共通の基礎作り
はい、で、そのパーラミターヤーナとマントラヤーナ二つの大乗の道を浄化すべきであるというのは、つまり今言ったように、道の登り方が違うんだけど、でも基礎は同じなんです。パーラミターヤーナとマントラヤーナはね。で、それが今まで学んできたところなんだね。基礎作りはどっちの道を行こうと変わらない。だからそれは、例えば山に登る前の作業だね。山に登る前にどういう靴を用意するのか、どういうテントとかのセットを用意するのか、どういう食料を用意するのかっていうのは変わらないでしょ。険しい道を行こうが、なだらかな道を行こうが――まあ、実際に山登りの場合はいろいろ変わるかもしれないけど――一応変わらない。持っていくものは変わらない。持ってくものをそろえる状態が、この準備修行の段階です。
だから山登りの例えでいうと、ヒマラヤとかを登るのに、例えば防寒着も持ってきていない。あるいは靴もサンダル――まあこの間われわれがインド行ったときは、サンダルでヒマラヤ登ったけど(笑)、まああの辺ならまだ四千メートルぐらいだからいいけども。例えばねえ、エベレストの頂上目指すとかいうときにサンダルで登るっていうのはちょっとね、無理が――ちょっと話がずれるけど、この間その四千メートルのガンガー、ガンジス川の源流のね、ゴームクっていうところにみんなで行ったわけだけど、われわれはすれ違う欧米人とかに比べたらかなりの軽装なんだね。軽装なんだけど、びっくりしたのはゴームクの辺りに来たら、現地の巡礼者とかいるわけだけど、普通にインド人のおばさんとかがサリーとインドのサンダルで登ってるの(笑)。普通の街中の格好でそのまま登ってて(笑)。ああ、すごいなあって思ったけど、まあでもあの辺までならそれくらいでも何とかなるかもしれない。でも例えばエベレストの最高峰をサンダルとサリーで行くっていったら、もう凍死してしまうかもしれない(笑)。あるいは足が凍傷になってしまうかもしれない。ね。あるいは例えば食糧をちゃんと、この山を登るんであればこれくらい持っていかなきゃいけませんよっていうのを無視して、いや、これくらいでいいだろうっていってたら、途中で餓死するかもしれない。あるいはテント持ってけって言われてるのに持ってかなかったら、途中で、これも例えば寒くて死んでしまうかもしれない。いろんなその先達のね――つまりその山を何度も登ったことがある人たちが用意してくれたリスト――まずこれを用意しなさいよ。これとこれを用意しなさいよ。これをおろそかにしてたら山道で危険な目に遭いますよと。
だからそれと同じ発想だね。この仏陀への道を登ったことがある人たちがわれわれに示してくれた、準備修行としてこれやっときなさいよっていうのをおろそかにして、いや大丈夫だよっていう感じで進んでくと、途中でひどい目に遭いますよということですね。
◎共通の準備修行を修習し続ける
はい、「そのために、パーラミターヤーナとマントラヤーナの共通の準備修行は、それらに対して確信が生じていない間は修習すべきなのである」。
はい、「それらに対して」っていうのはつまり、この上に挙げられたようなことね――つまりこれは、なかなか大変なことは大変なんです。つまりこれらに対して確信が生じるってどういうことかっていうと、この例えば挙げられていることをパッパッといっていくと――もうこの世の執着が全く何もないと。あるいはこの輪廻が本当に普段からもう苦しくてしょうがないと。で、もう解脱したくてしょうがない。一瞬たりともこの世のことが楽しみと思えない。で、心の中は衆生に対する慈悲でいっぱいであると。本当にみんなを救いたい、みんなを幸せにしたいっていう思いが一瞬たりとも途切れない。あるいは、カルマの法則がもう完全に理解できていて、もう少しの何か悪をやるのも怖くてできない――こういうことが完全に自分の中に根付いた状態をいってるんだね。
でもそれは、なかなか大変は大変。なかなかそんなことを、例えばそういう本とかを何回か読んだって、そんな根付くわけがない。よって、「それらに対して確信が生じてない間は」っていうこの言葉っていうのはトリックがあって、つまりこれはずーっとやり続けろっていうことなんです。つまり準備修行の時期だけではなくて、その後本格的な修行に入ったとしても、これらの教えに関してはずーっと学び続けなさいと。あるいは学んだり、瞑想したり、思索したりっていうことを続けなさいと。
これはチベット仏教でもよくいわれてる。すべては無常ですよとか、あるいはカルマの法則の話とか、あるいは輪廻の苦しみの話とか、あるいは慈悲の話とか、あるいは自分が今ここにいて、つまり人間として生まれ、修行というものに出合い、そして自分を進化させるプロセスに入ってるっていうことの稀有さですね。それはものすごいチャンスであって、これを逃したら本当にわたしはまた何万年、何億年もそういった教えにも出合えず、苦しい輪廻を繰り返さなきゃいけないかもしれないっていうこともしっかり学ばせる。こういったことは初心者からもう本格的な修行に入った人も、あるいはかなり上級に進んだ人も、ずーっとそれは学ばなきゃいけませんよということなんですね。
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