yoga school kailas

「カルマの法則への正念」

◎カルマの法則への正念

【本文】
ジェツン・ミラレーパも、次のようにおっしゃっている。

「善と不善の諸々のカルマに対して、因と果を正しく考えないならば
 耐えがたい悪趣の苦しみを受ける。
 よって、些細なカルマに対しても、怠惰にならずに、正念によってとらえなさい。

 五妙欲を過失として見ず
 厭逆ということが心の内から出てこなかったならば、
 輪廻の牢獄から解放されないから
 すべてを幻と理解する認識によって、
 苦しみの生起を対治することをよりどころとしなさい。

 父母である六道の衆生に対して恩を返さないことは
 小乗として迷乱する因である。
 それ故、大いなる哀れみによって
 菩提心を学習しなさい。」

 はい。まあこれは分かりますね。まず最初、

「善と不善の諸々のカルマに対して、因と果を正しく考えないならば
 耐えがたい悪趣の苦しみを受ける。
 よって、些細なカルマに対しても、怠惰にならずに、正念によってとらえなさい」

 はい、つまりこれは正念正智とよくいわれるように、ここでいうカルマっていうのは自分の身口意――つまり肉体とそれから言葉と心の動き。これを怠惰にならずに、常に監視し続けなさいっていうことです。

 つまり、適当に生きるんじゃなくて、適当にいろんなことを考えたり、適当にしゃべるんじゃなくて、わたしは今何を考えてるんだろうか。何をしゃべろうとしてるのか。何を行動しようとするのかっていうのを、つまり自分で自分を観察する。そして自分が誤った、つまりここでいう誤ったっていうのは何度も言うけど、別に道徳的に誤ってるっていうことではなくて、将来自分自身に悪しきデメリットがあるようなことを、わたしは自らやっていないだろうか。例えば簡単にいえば、教えがちゃんと分かっていれば、人に対して怒りを向けること、あるいは人を嫌悪すること、これは地獄への道だっていう教えがある。

 まあそれはその前の段階でなぜそうなのかっていうのをしっかりと理解しなきゃいけないわけだけど、例えばこの世界っていうのはすべて心が作り出してる。これが基本的な仏教やヨーガの考え方だね。この世界っていうのは実在してるわけではない。心が作り出した幻影だと。しかし心が作り出した幻影だといいながら、われわれはその幻影に完全にはまっている。だからこの人間界も幻影だし、地獄も幻影なんです。言ってみればね。幻影なんだけども、完全にリアリティをもってわれわれはそれを見てしまっている。で、はまってしまっている。

 だってそうでしょ? 例えばわたしがのこぎり持ってきて、例えばTさんの腕をつかんでギリギリギリってやったとして、Tさんが「ああ、幻影ですねえ」って言ったとしたらそれは悟ってる(笑)。ね。でも幻影だと言いつつも、「うわー! 助けてください!」ってなってしまう。もう完全にはまってるんだね、幻影にね。だから幻影だといってもそれはわれわれを苦しめるから、そのような悪しき幻影の中にはまらないようにしなきゃいけない。つまり自分の心がこの幻影を作り出してるから、心の中にある情報、データをきれいにしなきゃいけないんだね。

 しかし例えばわれわれが人に対して憎しみや、あるいは嫌悪感を持つっていうことは、それは殺伐とした、つまり攻撃的な心の世界を作り、それから現われる幻影というかな、リアリティをもって現われる幻影の世界が地獄なんだね。だから一つのセオリーとして、憎しみ、怒り、嫌悪。この心の働きは地獄という幻影を作り出しますよと。これがまず分かってて、それを信じてて、理解していたとしたら、例えば心の中でちょっと「あ、あいつ嫌だな」とか「あの人こういうことやってきて許せない」――こんなのが湧いてきたら、「やばい!」って思うはずなんです。「やばい! おれは自分で自分を地獄に落とそうとしてる」と。「駄目だ! わたしは慈愛を持って見よう」と。「いや、彼もいろんな理由があって、ああいうことを自分にやってきたのかもしれない。しかもそれをやられることは自分のカルマに過ぎない。だからこれはわたしは喜ぼう」と。「彼の幸福を願おう」というふうに自分のマインドをチェンジさせなきゃいけない。こういうことをひたすらやるんだね。

 で、これは精神が一番やっぱり難しい。心っていうのは勝手にいろんなこと考えるから。だから自分で自分を制御して、変なことを考えないようにする。で、正しい、教えに則ったことだけを考えるようにする。

 で、言葉とか行動もそうだね。言葉もわーってこう、調子に乗ってるときは特にくだらないことばっかりバーッとしゃべる。あるいはワーッと人の批判をしたり悪口を言ったり。で、その一つ一つをチェックする。「あ!」ってちょっと悪口を言いたくなったけど、この悪口もさっきの嫌悪と同じで、地獄に落ちる因だと。まああるいはもうちょっと日常的なことをいうと、わたしが誰かを批判したら、わたしも誰かに批判されるっていうことが起きる。これはよくないと。ね。

 例えば、まあこれはちっちゃなことでもそうだよ。例えば街歩いてて、「ああ、あの人かわいくないねえ」って言ったとするよ(笑)。「かわいくないねえ。ブスだねえ」とか言ったとするよ。ハッとしなきゃいけない。わたしが将来誰かに、あの人は醜い、かわいくないって言われる因を自ら作ってしまったと。ね。つまり言われたくないんだったら人のことをそういうことは言ってはいけない。

 まあだからカルマの法則っていうのは簡単にいってしまえば、自分がやられちゃ嫌なことはやるな。簡単にいえばね。これが基本です。で、それプラスさっき言ったような、われわれが教えを学ばないと理解できないような、例えば怒りによって地獄に落ちるとか、そういう法則も絡んでくるわけだけど。ベースとしては、自分がやられたくないことはやるなと。人に言われたくないことは言うなと。ね。

 まあただもちろん例えばさ、ちょっときつい言葉なんだけど、これによってこの人を正しい道に――例えば子どもを叱るときみたいにね、導いてあげたい。これはいいよ。なぜかというと、将来自分も同じことをやられるから。つまり自分が何か間違ったことをやってるときに、厳しい言い方をされて正しい方に持ってってもらえるっていうカルマになる。だからそれは全く問題はない。

 だから何度も言うように、自分がやられてもいいことはやりなさい。自分がやられて嫌なことは絶対やっちゃいけない。ね。

 これは行動もそうだね。自分の身体を使ってわたしは今何をやろうとしてるのか。これはなーんとなく習性でやろうとしてるけども、将来自分に大きな悪を生み出すものにならないだろうか。苦を生み出すものにならないだろうかっていうのを考えながら行なうんだね。で、もちろんそれで、全くそれは大丈夫だと思えばいいわけだけど、曖昧にして、本当はこれはいろんな苦が、将来的にカルマからいうとあるだろうなっていう感じで曖昧にしてやっちゃいけない。

 そうじゃなくて、些細なことに関しても、ちょっとしたことに関しても自分を監視して――何でかっていうとさ、カルマの怖いところっていうのは、蓄積されるんだね。ちょっとしたことを見逃したら、次はまたもうちょっと大きなことを見逃すようになるんです。この繰り返しによって、習性がどんどんどんどん悪しき方に向いてっちゃうんだね。だから、ちょっとしたこともできるだけ見逃さない。そうしてると逆にいい方に習性がこう雪だるま式に大きくなっていきます。だから正念正智が大事だよと。

◎五妙欲の過失

 そして、「五妙欲を過失として見ず」。

 五妙欲ってうのは五感の喜びのことです。五感ね。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。ね。われわれはもちろん五感でこの世界を体感してるわけだけど、もちろんそれは五感っていうのは必要ですと。必要だけども、そこで生じるいろんな苦楽がある。その楽の部分にあまりにも執着してしまうと、われわれはこの世に結び付けられてしまう。

 これは分かるよね。例えばわれわれは食べないと生きていけない。だからもちろん食べるのは大事です。食べるのは大事だし、例えばこういうお供物とかもそうだけど、普段の食事もね、それを食べながらこれを供養しますって気持ちでやるならば、われわれは徳を積めることになる。だから別に食べ物があって食べ物を食べること自体は別に良くも悪くもないし、供養の気持ちがあれば、逆にそれさえも修行にはできる。しかしそうではなくて、単純に自分の喜びのために味覚を追い求める。これやってると当然われわれはこの世に結び付けられる。

 他の五感もそうだね。セックスとかに代表される、触覚の喜びを追い求めるとか、あるいはきれいなものを追い求めるとか、好きな音楽を追い求めるとか、まあ嗅覚を追い求めるっていう人はあんまりいないのかもしれないけど、でもまあ匂いがすごく好きでいろんな香りを集めるっていう人もいるかもしれない。そういうのに縛られれば縛られるほど、われわれは輪廻の牢獄から解放されませんよと。よって、「すべてを幻と理解する認識によって、苦しみの生起を対治することをよりどころとしなさい」と。すべての五感の喜びは幻だと、幻だと、幻だっていうことを常に考えながら生きなさいと。

◎菩提心

 はい、そして、

「父母である六道の衆生に対して恩を返さないことは
 小乗として迷乱する因である。
 それ故、大いなる哀れみによって
 菩提心を学習しなさい。」

 これはいつも言うように大乗仏教の考えとしてね、衆生、つまりこの宇宙に生きるすべての生き物たち。自分以外の生き物っていうのは、輪廻の中で毎回毎回別の関係性を持つ。つまりずーっと親子だとか、ずーっと恋人だっていうのはありえなくて、死んだらまたいったんすべてはリセットされ、全然違う関係になる。しかもわれわれの輪廻の数がもう計り知れない。よく無始の過去っていう言い方するんだけど、つまり始まりを見つけられないほど、数字では表わせないほどの輪廻を繰り返してる。この二つの条件。

 つまり、もう一回言うよ。毎生、関係性が変わる。

 そしてその繰り返しが数字では表現できないほど繰り返されてる。

 この二つの条件を考え合わせると、すべての人が、わたしのお母さんだったことがある可能性がある。あるいはお父さんだったこともある。あるいはお父さんお母さんじゃなくてもいいんだけど。現代に比べて昔の、日本もそうだけどチベットとかインドっていうのは、親子関係の結びつきっていうのはすごく強かったから、よく父母っていうのが例えとして出されるわけだけど、別に父母じゃなくてもいい。自分を愛してくれた人。自分に大変な恩恵を与えてくれた人。自分を本当に、例えばね、自己を犠牲にしてわたしのためにいろんなことをやってくれた人っていうのが、そういう人だったことが全員あるんです。全員あるって考えるんだね。

 例えばM君がここに一人いるとしたら、M君が輪廻してる中では、ここにいるM君以外の人たち全員が、何かの恩恵をM君に与えてるんだね。たとえば十万生ぐらい前には、M君がTさんの子どもだったかもしれない。で、まあそのときはTさんはM君を虐待したこともあったかもしれない(笑)。しかしそのさらに前、二十万生前ぐらいは、すごい慈しみ深いお母さんで、例えばもう自分の着るものもかまわずM君に服を着せてあげたりとか、自分はものを食べずにM君にすべて食べさせて育ててくれたかもしれない。あるいはある生においては、OさんがM君の命を救ったこともあったかもしれない、例えばね。そういうことをいろいろ考えるんだね。

 前も言ったけどさ、この分析の方法っていうのは、確実に方向性は決まってるんです。客観的な哲学的分析じゃないんだね。方向性は決まってる。つまり例えばさ、ちょっと心の卑しい人がいたとしたら、「いや、確かにそうはいえるけど、でもみんな敵だったともいえるじゃないですか」って(笑)、そういう人ってこう、あまりメリットのない考えに走る場合があるから。それは駄目です。

 じゃなくて、確実に方向性は決まってるんだね。確かに敵だったこともあるだろうが、そんなことはどうでもいい。ベースとしてね。

 まあこれはいつも言うように、自分が受けた被害なんていうのはもう忘れてしまえと。そんなことはどうでもいいと。でも恩は忘れちゃいけないんだと。この発想だね。

 恩は忘れちゃいけない。じゃあ誰がわたしに恩を与えてくれたのかな。それはみんなその可能性があると。その部分をすごく考えるんだね。

 それをひたすら、これも準備修行の段階から考えて、で、わたしは恩を返さなきゃいけないんだと。つまり――もちろん単純にね、みんなを幸せにしてあげたいっていうその気持ちだけでもいいんだけども、それプラス、つまりわたしがみんなを幸せにするんだっていう感じだけじゃなくて、わたしはもともと恩があるんだと。だから恩返しをしなきゃいけないんだと。で、わたしが多くの何かを持っていて、「さあ、みんなにも分け与えてあげるよ」ってそういう発想じゃなくて、そもそもわたしは恩があるんだから、それをやって当たり前なんだっていう発想なんだね。それをひたすら準備の段階から固めなきゃいけない。そうしないと、小乗として迷乱しますよと。

 小乗として迷乱するっていうのはどういうことかっていうと、つまり、これもいつも言うようにね、われわれが例えばですよ、そういう慈悲とか菩提心の教えをあまり学ばずに修行を進めたとするよ。そうするとどうなるかというと、だんだんだんだん心がきれいになっていって、そして執着がなくなっていって、怒りとかそういう煩悩もなくなっていって、われわれはある――まあさっきの例えでいうと――小さな山に登るような感じになる。はい、小さな山の頂上に達しましたね。でも、基礎の段階で衆生への慈悲とかを固めてないから、あまり別に衆生のことはどうでもいい。自分はちょっと幸せになっちゃった。ここで終わっちゃう場合があるんだね。これが小乗に迷乱するっていうことです。

 つまり基礎として、例えばこういう勉強会とかでなんとなく慈悲とか菩提心とか学んでいたとしても、これが自分の中に確固として確立されてなかったら、あまり根付いてないから、そのうち抜けてっちゃう。抜けてっちゃって、自分が解脱とかして幸せになったときに、「え? 別に衆生なんかどうでもいいよ」ってなっちゃう。

 で、それはなぜ迷乱って書いてあるかっていうと、本人にとっても本当はよくないんです。それは小さな悟りに過ぎないから。そこでとどまることっていうのは、本当の意味での幸せではない。だからさっき言った、巨大な山の頂上である仏陀の境地まで行かなきゃいけないんだけど、菩提心がないと、自分がちょっと安楽になったところで満足しちゃって、「まあ修行辛いし、これ以上やんなくてもいいかな」と(笑)、ね、いう感じでもう終わってしまう。よって、初歩の段階でしっかり菩提心を作らなきゃいけないっていうことですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする