「三悪趣への恐れはない」
◎三悪趣への恐れはない
【本文】
「私は八つの不自由を恐れに恐れて、無常と輪廻の過失を修習した。
三宝に対して心を預けた。
カルマの法則の理解に努力した。
方便の菩提心によって心の連続体が浄化されたので、習気の障害の流れの道は断たれた。
現われた限りの顕現は幻として了解した。
さあ、もう三悪趣に対する恐れはない。」
これはミラレーパの言葉なわけだけど、まあミラレーパだから、もうそこまで完成してしまったっていうことをいっているわけですが、われわれもここに書いてあるようなことをひたすらね、何度も言うけども、自分の心に根付かせなきゃいけないわけですね。
「八つの不自由を恐れに恐れて、無常と輪廻の過失を修習した」。すべては無常であって、輪廻っていうのはこうこうこういうデメリットがある――まあさっきから言ってるようなことをしっかり学んだ。で、学んだだけじゃなくてもちろんいろんな修行もするわけだけども。
で、三宝にしっかりと心を預け、カルマの法則をしっかり理解し、そして――方便の菩提心っていうのはこれも何度か出てきたけど、絶対的な完成された菩提心っていうのは、これは理由がいらない。もうわれわれの心の本性、仏陀の本性にある、理由なき慈悲みたいなのがあるんだね。でもまだそこまでは行ってない場合、さっき言ったようないろんな考え方によって、自分の中に慈悲とかの思いをこう高めていく。これが方便の菩提心ですね。
これによって心の連続体が浄化されたので、これは「習気(じっけ)」って読むんですが、習気の障害の流れの道は断たれた。習気っていうのはつまり、さっきも出てきた習慣のことです。心の習慣性。つまりわれわれの今の性格とか、考えてしまうこととか、イメージとか、思考のパターンって全部この習気っていってね、過去世からの経験によるものに過ぎないんだね。そこにはいろんな悪い習気がたくさんある。その悪い習気にしたがってわれわれはいろんな間違ったことを考えてしまったり、悪い苦悩を感じたり、悪いイメージを持ったりするんだね。
それを慈悲の思いによって浄化――つまり習気っていうのは作られたものなんです。つまり過去にインプットされたものに過ぎない。よって今から別の新しいいいものをインプットしていけば、その習気の流れっていうのは浄化される。で、将来的にはそのいいインプットだけになってしまいますよと。
で、このいいインプットの最も重要なものが、慈悲なんです。つまり今までの習気のほとんどはエゴの習気なんだね。エゴの習気によって、自分の中にはエゴイズムっていうのがかなり確立されてしまった。だからそれと全く逆の慈悲の習気、慈悲のデータっていうのを徹底的にインプットするんだね。
それはもちろん最初はなんか変な感じがする。今までと違うから。でもだんだんだんだん慣れ親しんでいくうちに、それが自然になっていく。つまり、今まではいかに自分がいい思いをするか、人はどうでもいい――極端に言えばね。そういうような発想が心の奥にあったわけだけど、そうではなくて、自分はどうでもいいからいかに人に幸せを与えるか。ね。で、自分の修行自体もそのためにあるんだっていうことを、ひたすら考えながら日々を過ごす。あるいはもちろんそういう本を読む。そういう瞑想、慈悲の瞑想みたいな瞑想をする。これをひたすら繰り返すことで、もうそれも情報だから。情報がインプットされて、また自分は変わってしまう。
だから、われわれの習気っていうのは常に流れてるんだね。流れてるからどうでも変えられるんです。
もちろんね、いいものが悪いふうにもなるよ。その可能性もある。だ
からそれは気をつけなきゃいけないわけだけど。
はい、そして、「現われた限りの顕現は幻として了解した」と。つまり、すべては幻ですよっていうことを修習して、修習し続けて、完全に最終的にはそれを悟ったと。
よって、ここまで行ってしまったらもう三悪趣に対する恐れはないと。三悪趣に対する恐れはないっていうのは、もちろん三悪趣に落ちないっていうこともそうだけど、すべてが幻であって、そして慈悲の思いも完全に確立されたら、仮に落ちても大丈夫なんです。もともと幻なわけだから。
さっきの例えでいうと、完全にこの境地に達したら、誰かが来て腕をのこぎりで切ろうと全く関係ないです。ね。「ああ、また幻が来てますね」っていう感じなんだね(笑)。そこまでいったら、もう何の恐れもないよね。すべては幻だっていうことを思想として理解したわけじゃなくて、もう完全に体得した段階。
だからそれまで――もちろん教えだけではそこまで行けないんだけど、少なくともその準備としてのこの教えを固めるっていうのは、しっかり日々やらなきゃいけませんよっていうことですね。
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