yoga school kailas

「三つの原則」

◎三つの原則

【本文】
6 心の訓練に関する18の誓約

 ①誓いと行ないを矛盾させない・間違った極端に走らない・平等心を持つという三つの原則に常に照らして実践します。

 はい、常に三つの原則に照らして日々生きるということですね。

 まずは「誓いと行ないを矛盾させない」。これは分かりますね。誓いというのは もちろん、さまざまなヨーガなり仏教なりの「こういうふうに生きます」っていう誓いとか、あるいは戒律であるとか、あるいはここで出てくる「心の訓練の18の誓約」そのものでもいいけども、それと日々の行ないがもちろん矛盾しちゃいけないわけだね。あたりまえの話だけど。

 つまり言い方を変えると、常に誓いを思い起こし――まあ誓いというかな、自分が生きるべき道っていうのを思い起こす。ただその生きるべき道っていうのは、すごく膨大にある。例えばそれを項目で挙げたら膨大にありすぎるから、実際は例えば自分が気に入ってるっていうか、自分が中心的にこれがいいと思える――例えば、それが説かれた詞章であるとかね。あるいはそれは何かの項目でもいいけども、それを常に唱えるとか、一日何回もそういうのを読むとかして、それを忘れないようにして、自分の心が、あるいは日々の行動が、自分はこのように生きるんだと、あるいはこのようなことを守るんだと誓ったこと、あるいは決めたことから、決して矛盾しないように注意するってことですね。

◎間違った極端に走らない

 はい、そして、「間違った極端に走らない」。間違った極端に走らないっていうのは、これはちょっと説明が難しいんだけど――まあ分かる人は分かると思うけどね。間違った極端に走らない。そうだな、つまり何かこう、「こうするのが素晴らしいよ」「こうするのが正しいよ」って言われたときに、極端に走ってしまう人がいる。で、極端に走ること自体は、それ自体は悪いことではないです。悪いことではないんだが、方向性が間違ってしまうと、ちょっと意味がないというか。つまり、人生の中で自分が力を入れるところ、あるいは自分の時間をどこに使うかっていうことを、しっかり考えなきゃいけないので、「それは確かに教えとしては正しいけど、そこにそこまで極端に力を入れる必要あるの?」――っていうのがあるんだね。

 で、いろんな人を見てると、たまにそこに引っかかる人がいる。たまに、例えば勉強会をやってこういう教えを説きましたと。それを聞いた人が、「分かりました、先生。じゃ、明日からこうします」と、バーッて意味の無いことをやりだす人がいるわけだけど(笑)。これはちょっと具体例がなかなか挙げづらいから、すごく曖昧にしか言えないんだけど。間違った極端に走らない。

 ただ、もう一回言うけども、極端が悪いとは言えない。だから極端って言葉が悪いけど、これは二番目で出てくるんだけど、二番目では「精力的に強制的な手段を使え」ってあるね。つまりよくさ、仏教は中道だからほどほどがいいとかいう馬鹿なことを言う人がいるけど、そんなことはない。つまり、やるべきことは徹底的にやるんです。やるべきことは、もう極端なぐらい徹底的にやってかまわない。しかし、何度も言うけど、教えの項目っていっぱいある。いっぱいある中で、「今それやんなくてもいいんじゃない?」というところに極端なぐらい力をかけるっていうのは、ちょっとそれはよくないんだね。

 じゃあ、それは誰がどう判断するんだってっことになるけども、もちろん自分でしっかりと認識してね、自分が今やるべきことを認識できたら、それは一番素晴らしいね。で、分からない場合はもちろん自分の師、師匠とか、あるいは先輩とかにアドバイスをもらったりして、やるべきことをもちろん決めたらいいわけだけど。

 じゃなくて、極端――そうだな。何か例あるかな。まあちょっとやっぱりこれは例が挙げにくいね。だからみなさん、もし自分がやってること極端かなと思ったら、聞きに来てください(笑)。ね。でもあんまりそういう人いないけどね。あんまりそこまで何かを極端にやろうという人はあんまりいないけども、もし自分が極端かもしれないなと思ったら聞きに来てください。

 まあ一般的によく本とかで挙げられるのは、例えばだけどね、今言ったチェカワの話とかもそうだけど――このね、過去の心の訓練の実践者の話として、例えばさっき出たハンセン病ね、ライ病の患者の――例えば現代でいえばマザーテレサみたいな感じで、本当はうつるから危険だっていわれてる人のところに行って、ずーっと看病してね、で、自分もハンセン病になっちゃって手足が無くなってしまった聖者の話とかね、いろいろあるんだね。で、例えばその話を読んで、「素晴らしい」と。「わたしも自分の体がどうなろうが、人のため尽くしたい」と思って、だからといって例えばインドやあるいは他のそういうところを探して行って、ハンセン病の人のところに行って看病するとかいうことを、今あなたがやる必要はないと。例えばね。これはまあ一例です。

 ただまあ、それがその人の本当の意味で使命だったら、もちろんやっていいわけだけど。じゃなくて一時的な――例えば何かを読んだりとか何かを聞いたりして、それが本当に今のその人がやるべき本分ではないんだけども、そこに極端に力を入れてやるとかね。

 例えばここら辺がね、何で例えが難しいかっていうと、ある人にとっては極端だけども、でも別の人にとっては極端じゃない場合もあるんです。別の人にとってはそれはやるべきだっていうときもあるんだね。だからとても一般論としては例が挙げづらい。

 例えば、ここでもよく話が出てくるラーマクリシュナの弟子のナーグ・マハーシャヤって人がいたわけだけど、ナーグ・マハーシャヤっていう人は、あの人はもう超極端な人生を送ってる人なんだね。でもそれは、彼の素晴らしい一つの徳だったというか。例えばナーグ・マハーシャヤは、食べ物に対する執着を徹底的に落としたいから、執着しないようにっていって、一切自分の食事に味付けをしなかったんだね。で、塩さえ使わなかったと。つまりただのご飯だけを食べてたと。で、さらにもっともっと自分の――ご飯もおいしいから、もっとそれを落としたいと思って、米ぬかを食べだしたっていうんだね(笑)。で、それを友人が「これはまずい」と思って、米ぬかを隠したって話があるんだけど(笑)。例えばその本を読んで、「おっ、すげえ!」と思って、明日から米ぬかを食べる必要はない(笑)、例えばね。それはちょっとポイントがずれてるよと。あなたはそうじゃなくて、ナーグ・マハーシャヤのもっと根本的なね、彼の姿勢とか素晴らしい心構えを学ぶべきであって、米ぬかを食べるところを真似る必要はないよと。これがまあ、言いたいことだね。ちょっとこう曖昧な形でしか伝えられないけど。

◎平等心

 はい、で、次に「平等心を持つ」と。これは言葉どおりですね。いかに平等心を持つか。

 平等心ってね、実際は非常に広い深い意味があります。一般にいう平等心は、人に対する平等心ね。これは第一段階。つまりいろんな人を平等に見る。つまり、自分の中で極端な好き嫌いをつけない。

 ただこれもいつも言うけども、物の見方は平等なんだけど、ただ実際にその人との接し方はもちろん平等じゃないよ。平等であったら逆におかしい。なぜかというと、条件が違うから。

 例えば例を挙げるならば、自分の子供をね、すごく平等に愛してるお母さんがいたとして、でも子供の性質が違う場合、当然接し方は違う。例えば長男のこの子はいろんなことがあって、今心が非常に屈折してると。で、愛情に飢えていると。で、親を信じてないと。だからこの子には徹底的に愛情を与えてあげなきゃいけないと。徹底的にまずは優しくして、心を解いてあげなきゃいけない。二番目の子は、非常に強いと。強くて困難に立ち向かう勇気があると。この子はどんどん伸ばしてやろうと。よって、ちょっと厳しくしようと。甘えを許さないくらいにしようと。それがこの子への愛だと。なぜならばこの子は、厳しければ厳しいほどそれを乗り越える力を持ってる。よって、この子に対しての自分の愛は、徹底的に厳しくしようと。例えばね。で、三番目の子はその中間くらいだと。だからその中間くらいの接し方をしようと。そうすると、この親が子供に対するやり方は客観的に見ると、「あのお母さん、長男の子ばっかり甘やかして、次男のこと嫌いなのか、なんかいじめている」と――そういうふうに見えるわけだね。でもそれはそうじゃない、平等な愛があるわけです。みんなを愛してる。でも条件が違うから、当然やることは違ってくる。

 だから表面的な平等――例えば共産主義とかね、ああいう表面的な平等思想っていうのはあまり意味がない。あるいは現代的な、例えば男女平等とか、あるいは最近は小学校で、運動会で平等にするために一位を決めないとかいう話があるんだけど(笑)、そんなのは全く意味が無い(笑)。そんなことしてもしょうがない。

 じゃなくて、もう一回言うけども、まずベースとして平等にみんなを愛するんです。「平等に愛する」じゃなきゃ駄目だよ。平等に嫌いじゃ駄目だよ(笑)。ね。「先生、わたし平等心あります」と、ね。「みんな嫌いなんです」と(笑)。これは駄目です(笑)。じゃなくて、平等に愛する。みんなのことを平等に愛する。それをベースの上で、じゃあ自分とその人の関係や、あるいは相手の状況によって、今自分は何をやってあげるのが一番いいんだろうっていうのを考えるわけだね。これが一般的な平等心。

◎苦楽の平等心

 で、それから、もう一つ別の観点からいった平等心。これは、苦楽の平等心ね。苦楽の平等心っていうのはつまり、自分の中での問題、今度はね。自分の中で、「こうなったらいいな」「こうなったら嫌だな」っていう、こういう差別を持たない。一切の苦楽を平等に見る。あるいは成功と失敗を平等に見る。自分の中で、あらゆる意味で期待や恐怖や後悔やそういうのを持たないっていうことだね。あらゆるものを平等に見る。 

 ただ、これももちろん、じゃあ平等に見て何に対しても無気力になればいいのかっていうと、そういうもんではない。じゃなくて自分のやるべきことを淡々と全力でこなすと。あるいは、今の自分の課題を淡々を全力でこなしていく。だからヨーガでいうと、カルマ・ヨーガとかバクティ・ヨーガとか、まあバガヴァッド・ギーターの思想ともすごく通じるわけだけど。

 はい、だから平等心っていう言葉。この平等心ってたった三文字の言葉だけどね。この言葉には非常に深い意味がある。だからこれはこれで、非常にここではシンプルにしか説かれてないので、日々それを自分の中で考えてね、あるいは人生のいろんな場面で思い起こして、「さあ、平等心を自分はもっているだろうか?」、「あらゆる意味で、平等心を持とう」って考えたらいいですね。

 はい、で、これを常にこの三つの原則に照らし合わせて日々実践をしなさいと。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする