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「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子に対して説いた教え」1895年6月26日

1895年6月26日(水)

 われわれの最高の仕事は為された。われわれの最も偉大な影響は、われわれが自己という考えを捨てたときに及ぼされるのだ。
 偉大なる天才たちは皆、これを知っている。
 さあ、唯一なる神聖なる行為者に、己をさらけだそう。「彼」に行為していだくのだ。自分では何もしてはいけない。

 完全に諦めなさい。完全に無関心になりなさい。そうしてのみ、あなたは真の仕事を行うことができるのだ。
 眼では真実の力は一切見ることができない。その結果しか見ることができないのだ。
 自己を追い出し、それを失い、それを忘れなさい。神にただ仕事をしていただくのだ。それは「彼」のお仕事なのだ。
 われわれには為すことは何にもない。それから手を引いて、神に仕事をしていただきなさい。
 われわれがそこから遠くへ離れれば離れるほど、神はますます中へと入って来られる。
 小さな「私」を取り除き、大きな「私」だけを住まわせなさい。

 われわれは、思考によって創られたのものだ。よって、考えることには気を付けなさい。
 言葉は二次的なものである。
 思考は生きていて、遠くに旅をする。
 われわれが行うそれぞれの思考は、われわれ自身の性格の影響を受けている。
 純粋で神聖なる人にとっては、冗談や罵りを口にすることでさえも、自分の愛や純粋性を歪んだものにしてしまう。
 だから、善を行いなさい。

 何も欲するな。神を思い、見返りを求めるな。無欲な者こそが結果を出す。

 托鉢修行者は、すべての家々にダルマをもたらす。しかし彼らは、自分は何もしていない、何も主張していない、自分の為すことは無意識で行われていると思っている。

 叡智の樹が蝕まれると、人はエゴイストとなり、彼らが行うすべての善はどこかに飛んでいってしまう。
 「私」と言うや否や、われわれは常に迷妄となり、それを「叡智」と呼ぶようになる。しかしそれは木に結ばれた去勢牛のように、ぐるぐるとまわりを回るだけだ。
 主は最高に上手に御姿をお隠しになる。彼のお仕事は最も善いものである。最高に上手に御姿を御隠しになっている彼は、最高のものを達成するのだ。

 サットヴァの状態において、われわれは事象のまさに本性を目撃し、感覚を超え、理性を超えて行く。

 われわれを閉じ込める堅固な壁は、エゴイズムである。われわれはすべてのものを自分自身に差し向け、私がこれやあれをやるのだ、などと考えている。
 この取るに足らない「私」を取り除きなさい。われわれの中にある魔性を殺しなさい。「私ではなく、あなたです」――このように言い、感じ、実行しなさい。
 エゴによってでっち上げられた世界を放棄しない限り、決してわれわれは、天の王国に入ることはできない。
 (エゴの世界を放棄せずに天の王国に入るなどということは、)かつて誰もなしたことはなく、これからも誰もなすことはないだろう。
 世界を放棄することは、エゴを忘却すること、つまりエゴを全く認知しなくなり、肉体の中に住みながらそれを全く認知しなくなることである。
 この下劣なエゴを、完全に消滅させなくてはならない。

 あなたを罵倒してきた人々に感謝しなさい。
 彼らがあなたにどんなに善きことを為しているのかを考えなさい。彼らはただ彼ら自身を害しているのだ。
 人々に嫌われる場所に行きなさい。彼らにあなたの中にあるエゴを打ちのめしてもらうのだ。そうすればあなたは主により近づくだろう。
 母猿のように、われわれは世俗という「赤子」を一生懸命抱き締めているが、遂には、われわれはそれを自らの足元に置き、踏みつけざるをえなくなる。そうして初めてわれわれは神の御許に行く準備ができるのだ。
 誠実のために苦しめられるのは、祝福されたことである。

 娯楽は、われわれが踏みつけなければならない百万の頭を持つ蛇である。
 娯楽を放棄し続けても、しばらくは何も見いだせず、失望するだろう。それでも放棄し続けなさい。放棄し続けなさい。
 世俗は悪魔だ。
 それは、取るに足らないエゴが王として支配する王国である。
 それを断固として放棄し続けなさい。
 愛欲、金、名声を放棄し、主にしがみつきなさい。そうすれば最後には、完全なる無分別の境地にわれわれは達するのだ。
 感覚を喜ばせるものは喜びをもたらすという発想は、全くの唯物論である。
 そこには真の喜びはほんのわずかなすらもない。そこにあるすべての喜びは、真の至福のただの反映でしかないのだ。

 己を主に明け渡した者たちは、いわゆる労働者たちよりもさらに世界のために仕事をする。
 完全に自己を浄化した者は、大量の牧師たちよりもさらに目的を達成する。
 純粋さ、そして寂静から、力強い言葉はやって来る。

「ユリの如くあれ。一所にとどまり、自らの花びらを広げ、蜂が自らやって来るユリの如くあれ。」

 ケシャブ・チャンドラ・センとシュリー・ラーマクリシュナは、素晴らしい対比である。
 後者は、この世にどんな罪も苦しみも決して認識しなかった。闘争の邪心もだ。
 前者は、道徳的な改革者であり、指導者であり、ブラフモー・サマージの創立者であった。
 十二年後、ドッキネッショルの静かな預言者は、インドだけではなく、世界を革命した。
 その力は、ただ生き、愛し、己の個性を引っ込めた寂静なる者たちと共にあるのだ。
 彼らは決して「私」や「私のもの」と言わない。彼らは、ただの道具になることにおいて、ただ祝福されているだけである。
 そのような人々は、永遠に生き、完全に神と自己を同一化し、理想的な存在であり、何も尋ねることなく、意識的には何もしていないキリストやブッダを創り出すのだ。
 彼らは真の行為者、ジーヴァーンムクタであり、完全なる無私であり、個性を吹き飛ばしてわずかな個性しか持たず、非実在の求道者である。
 彼らは皆、個ではなくて、ダルマそのものであるのだ。

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