「ラーマクリシュナの福音」の著者Mの短い伝記(2)
マヘンドラはたずねた。
「師よ、どのようにして神に心を集中させたらよろしいでしょうか。」
師「繰り返し神の御名をとなえ、神の栄光をうたい、ときどき神の信者やサードゥたちを訪ねなさい。ときどき人気の離れたところで瞑想を実修するのでなければ、心を神に集中することは難しいだろう。人は自分の務めは果しながら、神を思い続けることができる。瞑想するためには、自分の内部に閉じこもるか、あるいは隔離された一隅か、あるいは森の中へ退かなければならない。神のみが実在、永遠なる実体であって、他はすべて非実在、つまりかりそめのものである。このように識別することによって、人は感覚的な喜び、名声、権力、あるいは富といったかりそめの対象を心から振り落とすべきである」
マヘンドラは初めは、形のない神を考えることが好きだった。師はそれで結構だよとおっしゃった。実際ある日、師は彼をマティ・シール・ジール湖に連れて行き、どのように魚が広い水面を喜びにあふれて泳ぎ回っているかお示しになった。そして、これが人が形のない無限なる者を思うときの心の状態だよ、とおっしゃった。
しかしながら、徐々に師はMに、形ある神の礼拝もお教えになった。Mはまもなく、神ご自身があらゆる形をお持ちになることを理解した。
また師はマヘンドラを、彼の仕事のために訓練され始めた。なぜなら彼は、師のリーラーの中でその仕事を手助けするためにこの世界に連れてこられたのだから。師は彼に、どのようにして人が家族の中で生活しながら心の奥底ではサンニャーシーであることができるか――グリアスタ・サンニャーサの理想についてお説きになった。
師はこうおっしゃった。
「自分の務めは残りなく果たせ。しかし心は神を思い続けよ。みなとともに――妻子や父母とともに生活して彼らに仕えるがよい。お前にとって非常に親密な人びとであるかのように彼らを扱え。しかし心の奥底では彼らは自分のものではない、ということをわきまえていなさい。
金持ちの家の女中は、その家の仕事を全部する。しかし彼女の思いはつねに、故郷の自分の家の上にある。彼女は主家の子供たちを、まるで自分の子であるかのように育てる。彼らのことを‘私のラーム’とか‘私のハリ’と言いさえもする。しかし心の中では、彼らは決して自分のものではない、ということをよく知っている。
カメは水中を動きまわる。しかし、彼女の思いがどこにあるか察することができるか。岸辺の、自分の卵が産みつけてあるところにあるのだ。この世のすべての義務を果たせ。しかし心は神を思いつづけなさい。
もしお前が神への愛を養わないで、いきなり世間に入るなら、お前は次第に深く巻き込まれるだろう。それへの危険、それへの苦悩、それへの悲哀に圧倒されるだろう。そして世間のものごとを思えば思うほど、それらに深く執着するようになるだろう。
まず手に油をすり込んで、それからジャックフルーツを割れ。そうでないと、果実の粘液がてのひらにベタベタとくっつくだろう。まず神への愛という油を確保し、それから世間の務めに手をつけなさい。
しかし、この神への愛を得るには、人はひとりにならなければならない。ミルクからバターをとるには、静かな場所に置いて凝乳にしなければならない。あまり動かされるとミルクは凝乳に変わらないだろう。つぎに、お前は静かな場所に座り、凝乳を攪拌しなければならない。それではじめてお前はバターを得るだろう。しかしその同じ心が、世間に住むと低く落ちて行くのだ。世間にはたった一つの思い、『愛欲と金』しかない。
・・・・・・これとともに、お前は識別を行じなければならない。『愛欲と金』は一時的なものだ。神が、唯一の永遠の実体である。金で何が得られるか。食物、衣服、住む場所――それだけだ。それらの助けで神を悟ることはできない。それだから、金は決して人生の目標とはなり得ないのだ。これが識別の方法だ。分かるか。
同様に、考えてもみよ――美しい肉体の内部に何があるか。識別をすれば、美しい肉体さえ、骨や肉や脂その他の不愉快なものでできているのが分かるだろう。人がなぜ、それらのために神を忘れなければならないのか?」
マヘンドラは会話の最後にこのような質問をした。
「神を見ることはできるのでございますか?」
師「できるとも。ときどき一人になり、神の御名をとなえ、神の栄光を歌い、そして実在と非実在を識別する――これが神を見るために用いられる方法だ。」