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「ヨーガ行の力と不動の信念」

◎ヨーガ行の力と不動の信念

【本文】
『ヨーガをしっかり実践し、光り輝く真我から心と頭を決してそらさぬ人は、
 必ずそのもとへと到達するのだ。

 万有のすべてを知る最も古き支配者、万有の最小単位よりさらに微細な存在、
 想像を超える形を持った万有の維持者、太陽のごとく輝いている、あらゆる暗黒を超えた存在、

 肉体を離れるとき、ヨーガ行の力と不動の信念をもって、プラーナを眉間に集中させつつ、
 そうした至高の真我に心を向けたならば、必ずその人は、光り輝く至高の真我に到達する。』

 「ヨーガ行の力と不動の信念をもって」とありますが、つまりこれもさっきから言っているように、ヨーガの意味合いっていうのを一つ考えた場合、ヨーガっていうもともとの意味は、「コントロール」、つまり馬車の運転手が馬をうまくコントロールすると。あるいは「結びつける」って意味もあるけどね。馬をしっかり馬車に結び付けて、しっかりコントロールすると。
 これと同じように、普通はコントロールできない潜在意識とかあるいは感覚の働きとか、あるいは肉体の働きとか、それらをいろんなレベルで自分の深い意識の統治下に置くんだね。統御するっていうか。コントロールしてしまう。
 で、ここでいってることとそれをつなぎ合わせると、さっき言ったことと同じだけども、われわれが深い意識に入った状態で、自分の意識が普通はそのバルドの状態で、ワーッて――例えば憎しみが奥に隠れてれば、グワーッてそのダークなイメージが出てくるだろうし。あるいは貪りが隠れてれば、ワーッておいしいものを独り占めするようなヴィジョンに入っていくだろうし。で、ここに入ったときに意思の力でグッとこらえて、神や仏陀のイメージに持っていけるのかって問題があるんだね。普通は不可能なんです。普通は不可能なんだけど、ヨーガ行によってできるようになるんです。
 ちょっとこのへんはね、深い話っていうか本質的な話なんだけど、いかに鮮明な意識を持って深い意識に入って、自分の意識の世界をコントロールできるかどうか。これは一つのね、修行の段階の基準でもあるね。基準っていうか、その人が聖者かどうか決める基準でもある。
 一見ね、パッとしない人がいて、例えば言うこともあまりパッとしない。で、いろんな欠点があったとしても、その人が本当に深い意識を理解してて、ものすごい深い意識に入っても何にも引っ張られることなく瞑想し続け、どんどん入っていけるとしたら、その人は大聖者です。
 生きてる間はよくわからないけども、瞑想入ったときとか死後の世界で生きてくるんだね。
 だからヨーガ行っていろんなメリットがあるわけだけど、実は非常に本質的なメリットっていうのはこういうところにある。いかにわれわれが死後、鮮明な意識のまま自分の意志のもとに、コントロール下に潜在意識をおいて、自由に好きなところに行けるか。
 だからね、もうちょっと日常的なリアルなことを言うと、例えば皆さんが、「じゃー何時から修行しよう」って決めたとして、非常に眠かったとするよ。眠いときに、「あー眠いなー」って思いながら、フッと意識を戻して、ウッとこう瞑想したりとか教学したりとか。で、また寝そうになると。ウッとまたこらえてやると。これは死後の世界に対する一つの訓練になります。つまり潜在意識の強烈な深い意識に引っ張られようとするものに対してグッと意志の力で耐えてるっていうかね。これはだから練習みたいなもんなんだけど。
 実際はさっきも言ったように、普通だったら意識が完全に飛ばされるような意識まで入っても鮮明な状態を保ち続けなきゃいけない。だからヨーガ行のメリットってそういうところにもあるわけですね。
 「プラーナを眉間に集中させつつ」とか云々っていうのは、ここらへんは簡単に書かれていますが、これは実際は仏教やヨーガのテクニックで、いろんなパターンがあるね、やり方はね。われわれがその死のときにどこにこう意識を向けてエネルギーを集中させて、高い世界に生まれ変わるかっていう、いろんなテクニックがあるんだね。だからこれはあんまり深くは考えなくていいと思います。

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