yoga school kailas

「クリヤー・ヨーガ」

◎クリヤー・ヨーガ

【本文】
『タパハ・スワーディヤーイェーシュワラプラニダーナーニ クリヤーヨーガハ

苦行、読誦、神への祈念(または行為のすべてを神にささげること)、これらをクリヤーヨーガという。』

 はい。これは『ヨーガ・スートラ』を勉強してる人は分かると思いますが、『ヨーガ・スートラ』に八段階ヨーガっていうのがあって、この第一段階が「禁戒」なわけですね、まずね。これは分かる人いるかな……じゃあ、Rちゃん。禁戒ってなんだっけ?

(R)してはいけないこと。

 その内容は?

(R)不殺生、盗んではいけない、邪淫……

 まあ、次に嘘をついてはいけないっていうのがきて――で、これは仏教の五戒とすごく似てて、五戒の場合は最後は「酒を飲んではいけない」ですが、ヨーガの場合は「不所有」。つまり「不所有」とか「貪らない」とか言われるけど、直訳すると「不所有」ですね。つまり余計なものは持つなと。
――というのがヨーガの最初にきます。で、二番目に「勧戒」といって、今度は「勧」っていうのは「勧める」って字ですね。勧める戒。つまり禁ずる戒ではなくて、逆に積極的に「こういうことしなさい」っていう戒があって、それが五つあるんですが、そのうち二つは「清浄」、それから「知足」。
 清浄っていうのは、「心や体を清浄に保ちなさい」と。「清らかに保ちなさい」と。
で、「知足」。これはさっきの「不所有」の発展系ですね。「足るを知る」と。つまり「より自分の人生において節制して生きなさい」と。「できるだけ贅沢せずに生きろ」と。
こういうのがあって、後の三つがここに書いてある「苦行」「読誦」「神への祈念」なんだね。これで勧戒っていうんですが、ここで書かれてるのはさらに勧戒の中のこの三つを取り出して、この三つをクリヤー・ヨーガというんですよ、というところですね。

◎苦行、読誦

 で、この苦行・読誦・神への祈念ていうのはなんなのかっていうと、すごくこの内容っていうのは大雑把なんだね。例えば苦行って言った場合、まあこれは実際、「タパス」っていうわけですが、この苦行の解釈も非常にいろいろある。タパスっていう言葉の元になってる言葉は「熱」って言葉があるんだね。つまりこれは直訳すると「熱行」といってもいいくらいで、つまり熱行って、ナーディを通すような肉体行全般といってもいい。だからよくお釈迦様が否定したような単純に体を痛めつけるような苦行のことではなくて、しっかりと気道を通していくようなハタ・ヨーガとか――後のね、この時代はまだはっきりハタ・ヨーガっていうのは確立されてないけど――後のハタ・ヨーガやクンダリニー・ヨーガにつながるような、肉体行全般ですね。だからみんながここでやってるようなアーサナ、気功、プラーナーヤーマ、ムドラーとかも含めて、そういった熱を増大させ、ナーディを通していくような修行。
 二番目の読誦っていうのは、これは二つ意味があります。一つは「経典を学ぶこと」。「学習」ですね。で、もう一つは「マントラを唱える」こと。
 この二つの違いっていうのは分かると思いますが、経典を学ぶときっていうのは、もちろんしっかりと意味を理解して学ばなきゃいけない。逆にマントラっていうのは意味は関係ない。そのヴァイブレーションを正確に発音して、その音に浸らなきゃいけない。
 これは前にも言いましたが、一応経典の解説なので繰り返すと――だから日本的な、漢字のお経を意味も分からず唱えるっていうのは全く駄目なわけですね。つまりこれは意味を分かって学習するってことにもなってないし、それから単純にマントラではなくて、サンスクリットを中国語に訳しただけのものを唱えてるだけだから、それはマントラでもない。でもなんかこう雰囲気がいいからね、漢字の雰囲気がいいから、なんかこう効果があるような感じでみんな「かんじーざいぼーさつ……」とか唱えてるわけだけど、実際われわれが読誦の修行やるときは、まず経典を読むんだったらちゃんと分かりやすい日本語に訳して、母国語に訳して、意味をちゃんと理解しながら読まなきゃいけない。で、マントラを唱えるんだったら、ちゃんとそのマントラの部分ね、その部分をできるだけリアルなって言うかな、正しい発音で――まあ例えば、よく例に出すのが般若心経だね。般若心経っていうのは最後の一文だけがマントラです。その「ギャーテーギャーテー」っていう部分ね。その前までっていうのはひたすら「全ては実体がない」と。「全ては空である」ってことをいろんな例を出して説いてる。
 で、あれは漢字で読むんじゃなくて、ちゃんと日本語に訳されたものを読んだ方がいい。そして最後の部分は正確な発音で唱えた方がいい。だから「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソーギャーテーバジソワカー」か。漢字だとね。でもこれはもともとの発音だと、
「ガテー ガテー パラーガテー パラサンガテー ボーディー スワーハー」
ってわけだね。
 音のヴァイブレーションがかもしだす、われわれのエネルギーの変化とか心の変化とかを狙っているので、訛ると駄目なんだね、本当はね(笑)。
 分かるでしょ? 例えば最後の一文だけとっても、「ボーディー スワーハー」と。これはすごくきれいなマントラなんだけど。「ボーディー スワーハー ボーディー スワーハー ボーディー スワーハー」。これが漢字を当てたものを読んじゃうと、「バジソワカー」になるわけですよ。ちょっと世界が変わってしまう。
 音っていうのはやっぱり世界をあらわしてる。例えば作曲家がいて、その人が何か作曲したとしたら、それはその人の心の世界をその音に表現してるわけだから。仏教でいう色界。ヨーガでいう幽界とかあるいはアストラルっていわれてる世界は、ヴァイブレーション、音の世界なんだね。で、この世界にいかに影響を与えるかっていうのがマントラなんです。だから神聖なマントラっていうのをできるだけ正確な発音で唱えなきゃいけない。
 だから読誦のポイントってその二つですね。もう一回繰り返すけども、一つはちゃんと意味のある正しい経典を学ぶこと。もう一つは正確な音でマントラを唱えると。これが二番目の修行ですね。

◎神への祈念

 で、三番目は神への祈念。これはまず一つ目の神への祈念っていうのは、まあ、この言葉通りだね。日々神に祈りを捧げると。で、もう一つの意味はこのカッコしてある、「行為のすべてを神にささげる」と。これはもうカルマ・ヨーガだね。つまり自分の人生、あるいは自分の使命、もしくは社会においてやらなきゃいけないこと。――それは仕事であったり、あるいはいろんな人との対応であったり。そういったものっていうのは、自分のエゴのためにやってるのではなくて、神への捧げものであると。だから成功も失敗も関係ないと。ただ自分は神への供養として全力を尽くすだけであると。そこで自分が褒められようが、けなされようが、利益を得ようが、不利益を得ようが、全くそれは関係ないんだと。そういうカルマ・ヨーガ的発想ですね。あるいはそうじゃなくて、単純に日々瞑想して、あるいは祭壇に祈ったりして、あるいは懺悔をしたりして、神に祈りを捧げると。
 はい、この三つのこと。この三つっていうのは分かったと思うけども、この間の説法でも言った、「身・口・意」なんだね。つまりわれわれの肉体面、それから言葉の世界――つまり音の世界ですね。そして心の世界。この三つの浄化作業、これがクリヤー・ヨーガなんです。まず苦行、つまり熱によって体を通す作業によって肉体を浄化すると。そして日々マントラを唱えたり、経典の言葉を学んだりすることによって、言葉の世界、あるいはヴァイブレーションの世界を浄化すると。そして日々神に祈りを捧げる、あるいは自分の人生すべては神へのお供物であると、そのように考えることによって、われわれの心っていうのは浄化されますと。
 で、これをクリヤー・ヨーガというんですよ、というのがこの一文ですね。

◎マントラのなまりについて

 はい。何かここ質問等ありますか?

(K)先生、マントラをチベット弁で読むのはどうなんでしょうか?

 それは難しい問題だね。チベット弁っていうか、チベット訛りって確かにあるんだね。
 「オーム・マニ・パドメー・フーム」が「オーム・マニ・ペメ・フーム」だったり、「ヴァジュラ」が「べンザ」だったりとか。それは私の立場としてはノーコメントとしたいところだが、つまりこれは意見の相違があると思うんだよ。チベットの人達にいわせると、その方が効果的だって言います。つまり「ヴァジュラ」って言うよりも「べンザ」って言った方がいいっていうんだね、彼らは。でもサンスクリットっていうか、インド正当の仏教からいえば、「いや、それはべンザになっちゃ駄目なんだ」と。「ヴァジュラじゃないと力がないんだ」っていうんだね。それはだから縁とか信の問題もあるだろうね。
 好き嫌いは抜きにして私の印象としてはですよ、私の印象としてはやっぱりサンスクリットの方がいいと思います。サンスクリットに近い方がいいと思う。
 でもチベットの昔からの人達が「いや、それはべンザでいいんだ」とか「そっちにも意味があるんだ」って言ってて、それとカルマ的に縁がある人が、「そうなんだろうな」と思ってそれをやるのは全く問題ないと。でもそうなるとなんでもありになっちゃうんだけどね。「じゃあ日本訛りもいんじゃないか」って。あ、ていうか日本人っていうのは、別に日本訛りになってるわけじゃなくて、それがマントラであるってことも知らずに、マントラもお経にセットで訳されてるものを、お経と一緒に唱えてると。そこの方が問題なのかもしれない。
 まあそれはもう一つは、みなさんがもしチベットに執着があるんだったら、それはそれでいい。執着があるんだったら、わざわざヴァジュラをべンザって言ってもいいのかもしれないけど。もしそういうのがないんだったら、私はサンスクリットの方がいいと思うね。

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