yoga school kailas

◎超然とした意識

【本文】
『真理を悟った神聖な意識の持ち主は、自分自身では何もしていないのだと思っている。
たとえ見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わったり、動いたり、眠ったりしていても。

また話すときも、手放すときも、手に取るときも、また目を開けるときも、閉じるときも、
感覚器官が対象物と作用しているだけなのだと知っており、自分自身は常にすべてから超然としている。』

 はい。まあこれもだから、理想ですね。ここで書かれてるっていうのはつまり、完全に悟った人はこうなんだよっていうようなのを書いてあるわけですが、同時にこれはつまり、われわれが目指すべきポイントであるっていうことでもあるよね。つまり、カルマ・ヨーガの一つのやり方としては、いろんな活動をしながらも、そこでいろんなものを見たり、聞いたり、動いたりしてるものは、自分がそうしてるんじゃないんだと。それは、この感覚器官というものが、対象物と触れ合ってやってるだけなんだと。で、自分っていうものはそれから離れて超然としてるだけなんだと。
 だからこれは前もいったとおり、仏教の教えと全く同じなんだけど、われわれの本質っていうのは、全てから本当は離れている。で、純粋なんだけど、映画を見てる観客みたいなもんなんだね。映画を見てる観客で、もうその映画に完全に没入した状態。で、それによって、その映画の主人公になり切ってる状態――が今のわれわれだと。
 でもそうじゃなくて、その映画はずーっと上映はしてるんだが、「これ、おれとは関係ない」と、完全に客観的に映画を見れることができた状態が、この状態。でもその人が映画を見てる、その映画が動いてるっていうことによって、客観的にはその人は普通に生きてるように見えるんだね。でも常に、「いや、これを経験してるのは自分ではない」と、「自分というのは、こんな、脳の経験でもないし、この、ここにいる体や感覚を経験してるのが自分じゃないんだ」と。もうちょっといえば、全宇宙に完全に広がってる純粋な意識、これが自分なんだと。この限定された感覚の経験なんか自分じゃないよと。単純なこの肉体という機械が、感覚っていう道具を使って、周りと何かいろいろ経験してるだけなんだと。そういう思いを抱きつつ、動けっていうことだね。
 だから例えば、こういうのを食いながらも、「うん、舌という感覚が(笑)、芋金を味わってる」と。全く私はそれとは関係ないというか(笑)。自分が全然超然としていて、宇宙に広がってる純粋な意識であると、客観視するんだね。こういう一つのやり方ですね、これはね。

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