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◎貪・瞋・邪見について

◎貪・瞋・邪見について

 はい、今日はこの辺で終わって、最後にもし質問があったら聞いて終わりにしましょう。何か質問がある人いますか?

(K)ちょっと聞き逃したんですけど、すみませんが……。最初のページの、身体・言葉・心の、貪・瞋・痴、邪見という話があったんですけども、心のところだけ、教えてください。

 貪と瞋と邪見ね。貪は簡単にいうと、執着です。そうだね、さっきあまり深く言わなかったね、ここはね。
 あのね、若干深くいうと、執着にも段階があります。それはまず、最悪なのは貪り。貪りというのは、もう本当は必要もないのに、心が完全にとらわれてそれを集めるとか、人のものまで欲しがるとか、そういう状態だね。これが最悪の貪り。
 次、もうちょっとやわらかいのが執着。つまり、必要のないものまでも集める、というところまではいってないんだが、ある何かに完全に心がとらわれている状態。それなしには生きられないというかな。それがどうしても欲しい。そこに心が完全に縛られている状態。これが執着だね。
 で、もうちょっとやわらかく、一番ベースとなるのは、単純にいうと、「好き」っていう気持ちです。好きっていう気持ち――これはもちろん慈愛じゃないよ。慈愛というのは、「好き」じゃないんです。慈愛というのは、「幸福になって欲しい」なんです。すごく単純な言い方をするとね。「好き」っていうのはエゴなんです。「好き」っていうのは「嫌い」があるんです。「好き」と「嫌い」、この二元で物事を見る。「好きだ」――これは逆に言うと、「嫌いだ」がある。例えば、「この扇風機の風、いいねえ」。逆に言うと、扇風機がない状態が嫌なんです(笑)。これがスタートなんです。
 ここで、これを題材にするとね、「あ、扇風機、いいねえ。でも、別に風がなくても、まあそんなに嫌じゃない。まあ、来たら来たでいいな」と――これが好きの段階。
 で、次に、「ああ、風が来て欲しいな」と。「今、扇風機止まってるの? え? 扇風機止まってたらこの部屋駄目だよ。なんとかしてつけたい」――これは執着の段階。
 次に、完全に貪りになってしまうと、その涼しさに完全にとらわれてしまって、もうどのような状況であっても、そのガンガン冷やした状態を維持したいというか(笑)。そこまでいってしまう。
 今のは涼しさが一つの例だったけども、食べ物であったり、異性であったり、あるいはいろんな趣味であったりするわけだね。いろんなものに対して、その段階がある。そのすべての段階が駄目なわけだけど、もちろん自分のコントロールできるところから捨てていかなきゃいけない。
 まずは、貪るような気持ちを捨てなきゃいけない。その次の段階で、執着の心――それがなきゃいられないっていう気持ちを捨てなきゃいけない。最終的には、その好き嫌いの二元を超えなきゃいけない。
 で、次に瞋も同じだね。瞋は今言ったように、好きの逆なので、ベースに来るのは嫌悪です。嫌悪というのは、「嫌だ!」っていう気持ち。もうこれで駄目なんです。「暑いの嫌!」――これも駄目なんです。あるいは、何か言われて瞬間的に「ああ、嫌だ!」――これも駄目なんです。
 その次の段階で、憎しみというか、嫌悪感に変わります。「あいつ嫌いだ。あいつ苦手だ」と。「わたしは本当にこういう環境は苦手なんだ」と。
 それが最終的に、怨念というか(笑)、凝り固まった憎しみに変わる。ずーっともうその敵をなんとかしようと考えている。
 この嫌い――瞋の段階にも、この三段階があるね。三段階というか、細かく分ければもっと段階があるだろうけど。
 はい、そして最後が邪見――つまりよこしまな見解。見解というのは、細かいことというよりも、ベースとなるものの見方なんだね。世の中をどう見るかということです。あるいは、自分の人生をどう見るかということです。
 例えばベースとして、インド宗教には、ヨーガであれ仏教であれ、カルマの法則というのは歴然としてある。自分が何かをやったらそのまま返りますよと。自分が人を幸せにしたら、自分が幸せになりますよと。自分が人を不幸にしたら、自分が不幸になりますよと。この歴然とした因果の法則があると。これがベースなんだけども、例えば、「いや、そんな法則ないよ」と。「人生はいかに人を押しのけて、自分がのし上がって行くかなんだ!」とかね。
 あるいは、輪廻転生。例えばチベット仏教で、必ず初心者から上級者になっても絶対に忘れちゃいけない四つの教えというのがあるんだね。はい、ではMさん、四つの教えとは? 

(M)人間に生まれた稀有さ、輪廻の苦しみ、無常、それから……

 じゃあ、Cさん、もう一つは?

(C)カルマの法則。

 カルマの法則ね。はい、これが仏教のものすごく基本的なことなんだけど、もう一回これを整理して言うとね、カルマの法則がありますと。やったことが返ってきますよ、というカルマがありますよと。
 で、このカルマをもとにして、六つのいずれかの世界に生まれ変わりますよと。この輪廻の世界は全部苦しいですよと。
 それから、その中でも人間の世界に生まれて、しかも真理にめぐり合うということは、ものすごいチャンスですと。それはもう宝くじが当たったよりもすごい。もう地球上の全砂粒の中から、一個だけダイヤモンドの粒があって、それを宝探しゲームして当てたようなもんです(笑)。もうありえないぐらいの確率で、人間に生まれて真理にめぐり合いましたと。
 しかしすべては無常ですと。
 この四つの教えがある。これを全部理解したらどうなるかっていうと、修行せずにはいられなくなるんです(笑)。一瞬も休めなくなる。
 「おれはもう修行しなきゃいけない! 修行に全精力を傾けなきゃいけない!」ってなるんです。これが仏教の四つの基本なんだけど。
 じゃあ、邪見ってどういうことかというと、この四つを例にすると、全部逆のことということだね。
 つまり、まずカルマを信じない――「何かやったからって、返ってくるなんてあり得ないよ」と。「だからおれは好きなように生きるんだ」。
 輪廻を信じない――「死んだら終わりでしょ?」、「そんな六道とか輪廻とか、おとぎ話に過ぎない」と。
 それから、人間に生まれ変わって、いま教えを学んでいるんだけど、それがいかに貴重かっていうことを信じない――「え? たまたまここに来てるけど、そんなにこの教え貴重なの?」と。「おれは来世も天に行くからいいんだよ」と。
 もう一つは、無常を理解しない。無常なんていうのは、ちょっと考えれば分かることなんだけど、例えば――「わたしと旦那さんの愛は永遠なんです」と。「先生心配しないでください。わたしは来世も旦那さんと一緒に行きますから」「いや、わたしの心は絶対変わりません。彼の心も変わりませんから。仏教で無常って言ってるけど、分かってないですね、私たちの愛を」と(笑)。これは邪見(笑)。
 これが全部邪見なんだね。
 だからそうじゃなくて、今言ったような四つの教え。これをベースに世の中を見るんだね。あるいは四諦ね。すべては苦であると。苦というのはすべて、煩悩によって生じているんだと。だから煩悩を破壊しなきゃいけない。あるいは煩悩を乗り越えて智慧を得なきゃいけない。そのためには正しい生き方をしなきゃいけないんだと――これが四諦の教えだけども。こういったベースを基に、世の中や自分の人生を見なきゃいけない。でも今言ったように、それと逆の見方で世の中を見て生きること――これが最後の邪見だね。
 あらゆる悪業の中で最悪なのは、この邪見です。だって悪いカルマがあって、本当は正しく生きたいんだけど邪淫しちゃうとか、本当は正しく生きたいんだけど嘘をついちゃうとか――これはさっきも言ったように、改善の余地があるじゃないですか。自分は頑張りたいと思っている。でもできない。これはちょっとでも頑張っていれば、いつかは改善される。でももともと見方が間違っていたら、もう最悪なんだね。
 つまり、素晴らしい条件は得ているんだが、カルマはないと思っている。だから悪いことをやりまくる。これはどんどん落ちていくだけです。だからこの間違った見解、これは最悪のカルマだね。
 われわれは過去世においてこの邪見のカルマをいっぱい積んだかもしれません。多くの間違った考えを持ち、しかもそれを人々に説いてきたかもしれない。間違った教えで、人を惑わしてきたかもしれない。だから法施が必要なんです。
 われわれがする布施とかあるいは善業を積むというのは、われわれの過去の悪しきカルマを清算するためでもあるんだね。われわれは過去、多くの人を間違った道に導いてきた。それを清算するには多くの人を正しい道に導かなきゃいけないんです。同様に、われわれは多くの人に憎しみを発してきた。それを清算するためには、多くの人に真の慈愛を発さなきゃいけない。こうして自分のカルマを清算するんだね。
 だからわれわれもこの一番最悪の邪見に陥らないためには、過去においてわれわれは邪見のカルマがいっぱいあるだろうから、今生においてもそういう世界に陥ることを防ぐためには、まずベースとしてしっかり教えを学んで、自分が正しい見解を心の中にしっかり根付かせて、それを人にも説くと。説くというか、自分でもしそれを説けなければ、正しい本を読ませるでもいいけども。それが必要だね。

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