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◎衆生の大恩

◎衆生の大恩

 はい、そして次に、「すべての衆生の大きな恩を思え」。すべての衆生の大きな恩を思いなさいと。

 これもね、いろんなところで話してるけども、これはいろんな意味があるね、「衆生の大きな恩を思え」っていうのは。

 まずよくいわれるのは、過去世――つまりわれわれが、仏教的な教えでいうと、もう数え切れないくらい生まれ変わってきてるわけだけど、その中で、自分と例えば敵だったこともあるだろうけど、でも自分のお母さんとか、友人とか、あるいは自分の最愛の人だったりとかして、で、自分に大きな与えてくれたこともたくさんある。あるいは、自分を犠牲にしてわたしのことを育ててくれたこともある。こういうことを考えるんだね。

 これはまあいつも言ってることだけど、つまり仏教的な法でいうと、われわれが何度この世に生まれ変わってきたんだろうか、それは数え切れないんだと。もうそれは数字では表わせないぐらいなんだと。で、その度ごとに関係性が変わっている。つまり、今生例えばこの人が自分のお母さんだったけど、来世その人は全然関係ない世界に行って、違う人が自分のお母さんになる。こういう感じで毎回毎回関係性は変わってるから。だから確率論的にいっても、すべての人が一回は自分のお母さんになった可能性がある。あるいはお母さんじゃなくてもいいんだけど、すべての人が一度や二度は――あるいは一度や二度じゃないかもしれない――何度も何度も自分のことを愛してくれた。あるいはさっき言ったように、自分を犠牲にしてわたしのことを救ってくれたり育ててくれたことがあるんだね。あるっていうふうに考えるんです。

 だからこういう考え方っていうのは、この仏教論もそうだし、あとバクティ・ヨーガとかもそうなんだけど、超肯定的なんだね。われわれに否定的な意識とかがあり過ぎると、こういった真理は理解できません。だってさ、否定的な人がいたらね、「いやあ、確かにすべての人がわたしの最愛の人だったこともあるだろうけど、すべての人が敵だったこともありますよね」ってこういう感じになってしまう(笑)。ネガティブな面に目を向けてしまうっていうか。

 そうじゃなくて、そんなことはもうどうでもいいんです。自分に誰かが――まあ例えばさ、今生の一つのことだけを考えてもね、例えばMさんがいるとして、で、Mさんがね、仮にですよ、わたしが小さいころ――まあ仮の話としてね、わたしが小さいころ、Mさんがわたしのことを一生懸命かばってくれたり、育ててくれたり、自分には本当にお金がないのにいろんなものをわたしに与えてくれたとするよ。ね。例えば。で、わたしがそれを覚えてる。「あ、本当にMさんはわたしが小さいころ、自分を犠牲にしていろいろ尽くしてくれた」と。ね。「恩返ししたい」と。でもMさんはその後、わたしが例えば中学、高校ぐらいになったら、Mさんがちょっと性格変わっちゃってひどい女になって(笑)、で、わたしにいろんな苦しみを与えたとするよ。いろんな悪口言ったり、あるいはわたしのものを奪ったり、あるいは実際にわたしに暴力をふるったりね、あるいはあることないこと言ってわたしを騙したりとかいろいろしたとするよ。それが十年ぐらい続いたとするよ。でも、恩は忘れないんです。つまりMさんは、なんかちょっとおかしくなっちゃって(笑)、わたしを苦しめ続けたが、小さいころわたしをかばってくれたり、わたしのためにいろいろやってくれた恩はもう忘れられないと。だからMさんがこんなに変わっちゃったけど、わたしはなんとかMさんに恩返ししたいって思うわけです。この気持ちなんだね。これをすべての衆生に向けるんです。

 もちろんそれは分からない。まだ超能力とか神通力がないから分かんないんだけど、そういう肯定的な面に目を向けるんです。

 さっきも言ったように、確率論的にいってその可能性はある。すべての衆生が、かつて自分を慈しんでくれた。だったらたまたま今生ね、自分を苦しめてたとしても、かつての恩っていうのは忘れられないんだと。これは一つの考え方だね。

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