yoga school kailas

◎神聖な空間を保つ

◎神聖な空間を保つ

【本文】
『ヨーギーは常に心を至高者に置き、人里はなれた場所に一人住み、
 いつも心身を注意深く統御して、欲望や所有意識を捨てていなければならぬ。

 ヨーガを実習する人は、人里はなれた場所に行き、地面にクシャ草をしき、
 その上に獣皮と布をかぶせ、座は高すぎず低すぎず、

 その座において精神を一点に集中し、心と感覚を統御し、
 しっかりと座法を組み、魂を浄化するためのヨーガを実践せねばならぬ。

 体と頭と首を一直線に立て、姿勢をじっと動かさずに保ち、
 周囲を見ることなく、ただ自分の鼻先だけを凝視せよ。
 
 心を乱さず、穏やかで恐れなく、梵行を完全に行ない、
 ひたすら私に心を向け、私をヨーガの究極目標とせよ。

 このように、体と心と行動を常に統御するヨーガの実践者は、
 ついにはニルヴァーナの境地へいたり、私と合一して永遠の寂静を得るに至る。

 ヨーガを行ずるには、食べ過ぎてはならず、食べなすぎてもいけない。
 また眠りすぎてはならず、眠らなすぎてもいけない。』

 はい。この辺はもう具体的なヨーガの瞑想のアドバイスになってきたね。はい。ちょっとざっといくと、まず人里離れた場所で――あの、さっきから言っているようにこの実生活、この世の実生活ってのは修行として必要なんだが、当然われわれが瞑想しようと思ったら、人里離れたところの方がいいです。つまり山の中とか、例えばハタ・ヨーガとかの経典にはもっと具体的にいろいろ書かれているんだね。矢が飛んでこないところとかいろいろ書かれているんだけど(笑)、つまりそんだけ遠いところってことなんだろうけど。あと、こういう気候で近くには小川が流れているところとか書いてるんだけど(笑)。
 ただ古代、古代っていうか昔のね、インドとかではある程度そういう条件を達成するのは大丈夫だったかもしれないけど、あるいは日本でも田舎のところなら大丈夫だけど、例えばこの横浜とか東京とかに生きるわれわれがね、さあ、瞑想のための場所をっていってそういう場所を確保しようとしたら、それはなかなか難しいと。だからそれはもう各自のできる最高の場所作りでいいと思うけどね。
 まあ現代ではそういう人里離れた場所に瞑想の場を設けるのはちょっと難しいので、逆に自分の家とか自分の部屋を神聖な空間に保ったらいいね。ここみたいにまず、家には祭壇を作るといいです。祭壇って別に格好はどうでもいいんだけど、はっきり言えばこれはちょっと、これ(カイラスの祭壇)の正体はカラーボードだけど、みかんの箱でもいいです。何でもいいです。つまり神の降りる場所みたいのを決めてそこに供物を捧げるとか、神の写真を飾るとか、そういった祭壇を作るとかね。あるいは余裕のある人は、部屋の余裕のある人は自分の部屋の一室だけは修行の場に決めて、そこにそういう祭壇を置いたりとか。そこではあまりみだらなことはしない。みだらなことっていうか(笑)、食べたりすることも含めて、そうだな、くだらない物を見たりとか、そういうのあんまりしないと。修行だけする空間にする。これは理想だね。
 そこまでの余裕がなかったら、もう自分の住んでる家とか部屋自体をそういうふうに保つように努力するしかない。そうやって神聖な空間を作って、あるいはもちろんこういうヨーガ教室に日々ちゃんと来るとかでもいいけども。そういうところでしっかり修行しなさいと。
 そして常に心を至高者に置き、心身を統御し欲望や所有意識を捨てると。そして地面にクシャ草をしき――このクシャ草ってね、よくわかんないんだけど、いろんなヨーガ経典に出てくるんです。クシャ草をしきなさいって(笑)。瞑想に凄く適した草なんだろうね(笑)。だからこれはわれわれは気にする必要はない(笑)。「え? クシャ草ってなんだろ」ってインターネットとかで調べる必要はない(笑)。なんでもいいですこれは(笑)。別に何も敷かないでもいいし。こういうのってつまり外で修行することを前提にしてるから。山のね、野の中で修行するのを前提にしてるからこう書いてあるけども、別に家の中で瞑想するんだったら何も構わない。何も敷かないでね。

◎瞑想とは集中力

 はい。で、『精神を一点に集中し、心と感覚を統御し、しっかりと座法を組み、魂を浄化するためのヨーガを実践せねばならぬ』と。『体と頭と首を一直線に立て』――はい、つまりこれは蓮華座等のしっかりした固定された座法を組み、しっかり腰を入れて背筋を伸ばすことによって体・頭・首を一直線に立てると。姿勢を動かさずに保ち、『周囲を見ることなく、ただ自分の鼻先だけを凝視背よ』と。はい、この鼻先っていうのは、このね、バガヴァッド・ギーターの鼻先を凝視せよっていうのは、いくつか説があります。仏教とかの瞑想でよく鼻先に集中するやり方もあるんだけど、ヨガナンダの師匠のユクテスワの意見としては、あの鼻先っていうのは眉間のことだっていってる。この鼻柱の先っぽだと。だから眉間なんだって言い方してる。でもこれはどっちでもいいかもしれないね。眉間に集中するっていうのはヨーガではよく行なわれることです。眉間にグッと一点集中する。つまりこの眉間のチャクラがあるわけですが、ここに集中することによって深い瞑想に入れるんだね。もちろんこれは心臓でもいい。あるいは頭のてっぺんの場合もあるね。いくつかポイントがあるわけですが、一点に集中すると。
 ディヤーナ、つまりヨーガの瞑想っていうのは――これは仏教もそうだけど、結局は集中力なんです。どんなにテクニックがあったとしても集中力がないとまったく意味を成しません。だから何のテクニックがなくても、眉間でもいいし、何処でもいいけども超集中力をもって集中ができれば凄い瞑想に入れます。だから古代の瞑想っていうのは凄く簡単なんだね。簡単っていうのは、「はい、じゃあ自分の心臓に集中して」――ただそれだけだったんです。でもそれを十二時間とかグーッとやるわけだね。しかもそれは一切逸らしてはいけない。これを達成できたらバーッて心の奥の世界に入っていって、いろんな自分の心の旅をして、最終的には真我に到達しますよと。非常にシンプルな瞑想。でもできないよと(笑)。できない――つまり昔の人はできたんでしょう。でもできないよってなってきたから、ああ、そうかと。で、いろんなそれを達成するための補助的な修行が生まれたんだね。
 でも本当は瞑想ってシンプルなんです。一点集中です。これは前も言ったけど、私は高校生の時にヨーガのね、トラータカっていうんですが、画鋲とかを壁に刺してね、グーッて集中する修行があるんだけど、それをやってたらね、いきなりバーッて世界が広がるんです。これはそういう気がするんじゃなくて、本当に広がるんです(笑)。視覚的に世界がガーッて、世界っていうか画鋲が広がるんです(笑)。画鋲がバーッて拡大する(笑)。それはヨーガ経典を見ると、ディヤーナっていうのは集中の拡大だって書いてある。でもね、それに解説があって、集中の拡大ってどういう意味かっていうと、例えば花に集中した場合ね、花の中心に集中してたら、花の色とか花の形とか花の匂いとか、いろんなところにまで集中が及ぶことを集中の拡大というんだよという解説がある。でもその解説は完全に間違いだってことが私は分かった。本当に拡大する(笑)。拡大っていうのは比喩じゃなかった(笑)。集中がある一定ラインを超えたときに拡大するんです。それはね、例えばスポーツとかでもあるよね。私も何例が聞いたことがあるけど、テニスの選手が凄い集中したときにあの小さなボールがバレーボールぐらいに見えると。だから絶対はずれないと(笑)。ね(笑)。あるいはゴルフとかそうだけど、凄い集中したときに巨大に見えると。ボールがね。絶対はずれない。つまり人間の集中力がある一定ラインを超えたときに拡大するんです。
 で、その先があるんだけどね。拡大しきったときに主客の合一ってうんだけど、主体と客体が合一するんです。集中してる自分と集中の対象が完全に一体化してしまう境地なんです。これが本当のサマーディなんです。だから集中力がないとどうにもならない。
 で、その集中力をその境地を何とか出させるためにいろんなのが考えられて、――例えばさ、面白いのは、チベット仏教の瞑想とかいろいろ面白いんだけど、何が面白いかっていうと、――これはヨーガにもあるんだけどね、例えば心臓に神の姿をイメージしなさいと。その神っていうのは芥子粒ぐらいですよと。本当に小さな一センチぐらいの神をイメージしなさいと。で、それがイメージできたらその神の心臓に集中しなさいと。神の心臓にもう一人神がいるのを集中しなさいと(笑)。どんどん小さくしてく(笑)。それによってグーッと集中点を凄く小さくさせて、ものすごい集中力を生み出すんです。
 これは実はこの神とかいうのはあんまり問題じゃないです。ここで生まれる集中力が問題なんです。これによって心の奥の方にバーッて入っていくんだね。だからそれがヨーガの瞑想のシンプルな意味での本質なんだね。だからそこにいろんな瞑想の、例えば慈悲の瞑想とか、あるいは神に変身する瞑想とか、あるいは心を観察する瞑想とか、いろんなものが乗っかってくるんだけど、さっきから言ってるように、何をするのにも集中力がないと何もなりません。
 だから日本人とかちょっと勘違いしてるとこがあると思うんだけど――ああ、瞑想かと。ああ、心を穏やかにしてボーッと座っていればいいのかなと。これは全然駄目なんだね。
 あの、集中して世界が開けた後にリラックスするのはいいんだけど――これはチベットのね、マチク・ラプドゥンマって人の言葉で――初め固く締め上げて、それが徐々に緩んでくると。そこに高い境地が見出される、っていうのがあるんだけど、これは私のイメージとしては、藁の束みたいのがあって、藁の束を紐でグーッて縛って、グーッて凄く縛るんです。集中によってグーッて縛り続けたときに、究極的な状態になったときに紐がバッて切れる。切れることによって藁がファーッて広がっていく。これが瞑想なんです(笑)。ある一つの言い方をすればね。
 つまり単純に最初から、ああ、ボーッ……っとしてるだけでは(笑)、それをやってると動物界に落ちます(笑)。これはね、チベットの聖者達も警告してるんです。そういう瞑想を勘違いして、ただ心の平安だとか言って、何も考えずにボーっとしてると動物界に落ちるよと。
 だから最初には相当な集中力が必要。で、それを中心としたヨーガね、これは非常に古典的なヨーガですね。

◎ひたすら至高者に心を向けて

 はい、そして『心を乱さず、穏やかで恐れなく、梵行を完全に行ない』――梵行っていうのは、ここでいう梵行っていうのは、性欲を中心とした禁欲ですね。一切性的なものを――つまりいつもいうように性エネルギーっていうのは悟りのエネルギーでもあるので、もったいないんだね、そっちの方に使ってしまうと。だから修行中は少なくとも一切完全禁欲してってことだね。
 そしてひたすら私に心を向け――ここで’私’って言ってるのはこの至高者クリシュナのことだから、つまり完全なる至高なる存在だけに心を向けなさいと。そしてその至高なる存在、絶対なる存在をヨーガの究極目的としなさいと。このようにする者は必ずニルヴァーナの境地に至って至高者と完全に合一するでしょうと。
 はい。その次のところはものすごく具体的な指示だね。『ヨーガを行ずるには、食べ過ぎてはならず、食べなすぎてもいけない』と。
 まあ、いろんなヨーガ経典とかには、胃の四分の一を空けておけとかいわれるけども、日本でよくいう腹六分目とか腹七分目とかいうやつだね。食べなすぎてもいけないっていうのは、必要があれば別に断食とかしてもいいんだけど、あまりに断食とかすると、――ミラレーパとかがいい例だけど、ミラレーパが草しか食わなくて体がガリガリに痩せて修行してたら全然何も達成されなかったと(笑)。お釈迦様もそうだけどね。供養を受けてちょっと体力を回復して、やっと心が鮮明になってきて瞑想ができたって話があるけども。あまりにも極端な苦行とか断食とかやると、そもそも瞑想するだけの土台というかパワーもなくなってしまう。
 そして『眠りすぎてはならず、眠らなすぎてもいけない』と。もちろん眠りすぎることによってわれわれの無智は増大します。で、寝むらなすぎてもいけないっていうのは、もちろん覚醒して本当に眠れない――眠らなくてもラーマ・クリシュナみたいにね、ラーマ・クリシュナみたいに覚醒しちゃって眠らないで大丈夫っていうんならいいんだけど、そうじゃなくて本当はちょっと体が疲れてて睡眠をある程度必要としてるんだけど、観念的にね、無理して寝ないとか、それだとまた食べないのと同じで、良い瞑想ができませんよってことだね。ただ自分の行としてね、「いや、私は三日間眠らずに瞑想するんだ」とかそういうのを目指してる人はそれはまた別問題ね。それを達成するのはまったく悪いことではないけども。

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