yoga school kailas

◎有想サマーディ

【本文】
ヴィタルカヴィチャーラーナンダースミターヌガマート サンプラジュニャータハ

サマーディのうちで、ヴィタルカ、ヴィチャーラ、楽、我想などの意識を伴っているものは、「有想サマーディ」と呼ばれる。

 これはね、この後の章の方でも同じようなのが出てきますが、これは仏教の色界のサマーディの説明とほとんど同じですね。ここはわざとヴィタルカ、ヴィチャーラって原語を残したけど、仏教ではここをヴィタルカは「尋【じん】」です。ヴィチャーラというのは「伺【し】」。有尋有伺というやつですね。
 この説明は前に何回かしたけども、実はこの定義っていろんな説があるんです。ちょっとこうだとは言えないところがあるんだけど、ヨーガ・スートラで後の方で出てくるのは、尋――ヴィタルカの方は、いろんな心の動き。これを肯定的にとらえると、さまざまな思索の動きです。
 尋と伺の違いは、より微細になったのが伺だっていう考え方がある。一つはね。定義だからそれはそれでいいんだけど。

◎経典の読み方

 ちょっと話がずれるけど、経典の定義についてちょっと考えてみましょう。定義。たとえばヨーガ・スートラもそうだしバガヴァッド・ギーターもそうだし仏典もそうだけど、例えばお釈迦様とかあるいは聖者の言葉で、どうとでもとれる言葉ってあるんです。これをある派はこういうふうに定義した。で、別の派は全然違う定義をしていたりする場合がある。これを、ちょっと頭が固い人が見ると、「真実は一つのはずである」とこう考える。でもよく考えてみてください。たとえばお釈迦様の本当に言いたかったことは、お釈迦様を呼んでこない限り分からない(笑)。
 つまり何を言いたいかっていうと、それが本当にお釈迦様が言おうとしたかどうかは、どうだっていいんです。結論が正しければいい(笑)。これが学者と修行者の違い。
 学者っていうのは、言葉を追い求めて、その言葉の真実を探ろうとするんだけど、それは不可能なんだね。何度も言うけど、お釈迦様を呼んでこない限り、お釈迦様の真意は分かりません。例えばいろんな派の人が、お釈迦様の真意はこうだ、こうだ、こうだ――みんな推測だね。ヨーガ・スートラもそうです。ヨーガ・スートラも作者を呼んでこない限り、真意は分からない。だからちょっと変な話だけど、例えばここでも勉強会をいろいろやってるけどね、一応ここで勉強会やるときは、私もできるだけちゃんとした原典的な資料を出すようにしているけども。例えばですよ――これは仮の話として、私が何か間違ったとします。間違ったというのは、原典の言葉から間違って、全然違う意味にとっていたとするね。でも違う意味にとったけど、私はそれをみんなに説明するときは、当然そこから結論に導くような話をします。ヨーガ・スートラのやり方とは全然違うんだけど、同じ結論に導くような話を展開する。でもこの私の今の話というのは、ヨーガ・スートラの解説とは実は違っていたとする。間違いじゃないかと――でもいいんです(笑)。こういう読み方をした方がいい。言っている意味分かるかな。
 だから経典というのはそういうふうに読まないと、頭でっかちになっちゃうんだね。この尋・伺もいろんな説がある。頭でっかちだと、「説がいっぱいあるっておかしいんじゃないですか?」と。でも私はいろんな説を読んで、「そっちもそれでいいね」と。「でもこれもこれでいいね」」と。こういう考え方をするんだね。一つじゃなくてもいいんです。
 多分最初にヨーガ・スートラの作者が狙ったのは、どれか一つなんです。でも二番目三番目の説でも、結果的にそれで瞑想が進むならいいんです、それはそれでね。もちろんそれが瞑想が進まない机上の空論じゃ駄目だよ。机上の空論で間違ったことを書いていたら、それは駄目だけども。ちゃんと正しい結果に達するようなものだったら全く構わない。そういう読み方をしたほうがいいね。

◎ヴィタルカとヴィチャーラ

 はい、この「尋」と「伺」だけども――それもいろんな説がありますが、さっき言ったように粗雑か微細かという説もあるけど――私の一番こうかなと思う推している説を言うと(笑)、「尋(ヴィタルカ)」っていうのは、熟考とか思索とかそういう感じで、いろんな教えに基づいてさまざまなことを分析したりしていく心の働き。
 「伺(ヴィチャーラ)」の方は、この結果として、つまり分析をある程度した結果として――ラーマクリシュナのいう「識別」というのに近いんだけど、取捨選択を行う状態。取捨選択というのはつまり、「これは迷妄である。いらない」。例えば自分の心の中で、「このような心は持ってはいけない、だから捨てよう」「このような心は育てよう」――こういった取捨選択の心の働き。
 ヴィタルカはそうじゃなくて、それ以前の分析の、「こういう心っていいんだろうかどうだろうか」――この分析の状態。で、取捨選択の心の働きがヴィチャーラってとるのがいいかなというふうに、今は私は考えているね。
 みんながそうじゃない別のヨーガ・スートラの解説とかを読んで、違うことを書いてあって、で、それがもし納得できるんだったら、そっちの解釈でもいいです、もちろん。私はいろいろ読んだり自分で経験した今の結論としてはね、今言ったような「思索・熟考」と、それから「その後にそれを取捨選択したりしていく働き」というふうに考えていますね。

◎仏教の四つのサマーディ

 仏教においては、まずこの二つ「ヴィタルカとヴィチャーラ(尋と伺)」がある瞑想――この段階でサマーディに入る瞑想を、第一サマーディといわれているね。
 第二サマーディにおいては、この二つは止まりますよと。これは「無尋・無伺」とかいうんだけど、ヴィタルカとヴィチャーラが止まった――イコール心が止まったということです。つまりもう一回言うと、これもいろんな説があるんだけど、私の説として聞いてください。仏教における第一段階のサマーディというのは、ジュニャーナ・ヨーガ的に正しいものを分析していって、自分の心の中を整理していくような瞑想をひたすら行なった果てに至る至福の境地――これが第一サマーディです。
 で、第二サマーディは、そのような心の働きがなくなった状態。もう完全に表面的な心の動きが止まった状態。そして至福の境地に入る――これが第二サマーディです。仏教的にはね。
 仏教においては「楽」ともう一つ「喜」と呼ばれる精神的な喜びの境地があって、この精神的な喜びが消えて純粋な色界の楽だけになる――これが仏教の第三サマーディ。
 第四サマーディにおいて、その楽さえも消えてしまって、そして「不苦不楽」と呼ばれる状態になっていく――これが第四サマーディといわれてる。
 そして仏教においては、その第四サマーディからより深い無色界のサマーディとか、あるいはニルヴァーナまで行くわけだけど。

◎根本的なエゴイズム

 ここで言っているのは、同じような要素を使っているね。まずヴィタルカ、ヴィチャーラ――つまり尋と伺。これが残っているサマーディがありますよと。
 それがだんだんないサマーディになっていく。そうなるとヴィタルカとヴィチャーラが消えると、楽と我想だけがあるんだけど。で、楽というのものがただある状態。これが仏教でいう第三サマーディ。
 この楽も消えてしまった時、これが第四サマーディなんです。
 この第四サマーディからさらに無色界、つまり心の一番奥の世界に入っていくと――仏教においてはまたいろんな段階があるんだけど、最後の最後の方でここでいうところの我想――この我想というのはですね、これは非常に難しい話だけども、エゴイズムの根本みたいなものです。つまり何だっていうんじゃないんだけど、「私」っていう感覚がある。
 これは多分私の見解ではね、ちょっと難しい話になっちゃうけども、前に書いた十二縁起とかの話で当てはめると、例えば行の段階。あるいは識まで行っているか分からないけど、まだ心の動きというものがあまり確固としたイメージとして展開されていない、なんとなくカルマが動いているだけの状態のときに、なんとなくその全体に対して実体視するような感じ。この段階を我想といっているんじゃないかと思う。すごくおおもとのおおもとの段階だね。
 まだ善悪のカルマとか、そこに完全に巻き込まれているわけじゃないんだけど、その全体の動き――映画でいったら、映画にはまりだした段階です。まだ「おれは寅さんだ」まではなってないんだけど(笑)、その映画全体、「男はつらいよ」だったら「男はつらいよ」っていうなんとなく全体像の世界にはまりだしている状態。これを根本的なエゴイズム、我想だね。
 だから今われわれが持っているエゴっていうのは、すごく個別化されて、すごく具体的になっている。例えば、「おれはお茶が好きなんだから飲みたいんだ」とか、すごく具体化されちゃっているんだけど、そうじゃないもっと根本的なエゴなんだね。なんとなくその全体に対して持っている、エゴというか実体視するような感覚というか。で、これが一番最後にある。これらがまだある段階が、有想サマーディ――まだ想いがあるサマーディということだね。

(K)その根本的な煩悩というか、ユクテスワとかがいう真我じゃなくて、もっと前の段階の個別の真我みたいな感じですか?

 いや、そこまでいってないです。その個別の真我にも到達してない、まだ。

(K)存在している感覚みたいな、そういう……あれですか? 根本的な……

 そうだね。根本的な存在の感覚といってもいいのかもしれないし、そうだね。この幻影の世界を実体視する根本みたいなものだね。だから夢の見始めみたいなものです。

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