◎教えどおりに生きる訓練
◎教えどおりに生きる訓練
【本文】
『私が一切の供犠と修行の究極目的であり、すべての世界のマヘーシュヴァラ(大自在主)であり、
すべての生類の幸福を願う朋友であると知る人は、永遠なるシャーンティ(平安)の境地に達する。』
はい。これはまあここで『私が』っていってるのはクリシュナのことですが、もちろんこれはさっきも言ったように、クリシュナじゃなくてもいい。シヴァ神を信じてるならシヴァ神でもいい。つまりまあ、全ては名前に過ぎないから。
つまり完全なる至高者というのがいて、この至高者っていうのは、単純に、さっきから言っているように、天界のここに住んでる何とかっていう神ってそんなんじゃなくて、全ての供養と修行の究極目的であると同時に、全ての生類を願う朋友なんだと。つまり完全なわれわれの目的であると同時に、完全なるわれわれの保護者であると。
こういう信、確信っていうか、それをクリシュナでもシヴァでもブッダでもいいけども、それに対して抱ける人は、永遠なる平安の境地に達するでしょうと――いうことでこれが締められてますね。
はい。じゃあ全体的に何か質問等ある人いますか。特にないかな。
まあ今度バガヴァッド・ギーターもちょっとこう、無駄な部分を削った、まあ教本というかな、それを出そうかと思いますが。つまりバガヴァッド・ギーターっていうのは、何度も言うけど、一見とっつきにくいんだね。それは訳の問題もあるし、いろいろ、本当の教えと関係ない部分がいろいろ入ってるから、とっつきにくいんだけど、こうやって読んでみると分かるように、非常に、何ていうか、高度で、かつ実践的な教えなんだね。
だからこれを例えば日々読んで、この教え通りに生きようという実践を心がけることができたら、ものすごくわれわれの人生とか修行においてプラスになると思うね。
◎パラー・バクティ
はい、じゃあ、何かありますか。特に関係がないのでもいいですし。特にないかな。
Cちゃん、何かありますか。
(C)マヘーシュヴァラ、大自在主っていうのは、何ですか。
マヘーシュヴァラっていうのは、普通はね、マヘーシュヴァラってシヴァ神のことなんだけど、まあ、何ですかっていうか(笑)。
つまり、マヘーシュヴァラっていうのは、マハー・イーシュヴァラ――の「マハー」と「イーシュヴァラ」をくっつけて「マヘーシュヴァラ」っていうんですが。
「マハー」って「偉大なる」。「イーシュヴァラ」っていうのは「自在主」。
つまり、結局あらゆるこの世のカルマも含めていろんなものから解放された、自在なる、もうわれわれの上に存在する、われわれの保護者みたいな存在っていうか。それが自在主。
で、それに「大」を付けて、「偉大なる」を付けて、マヘーシュヴァラ。
つまり、偉大なる自在主と。
つまり、これもさっきから言ってる、ちょっとわれわれより高い神とかそんなレベルではなくて、もう全てを包含した、完全なる、われわれを導いてくれる存在というか。これがマヘーシュヴァラ、自在主だね。で、普通はこれ、シヴァ神の別名なんです。
でもまあ、さっきから説明聞いても分かるように、結局、シヴァとか、クリシュナとか、ブッダとかっていうのは名前なんです。
これは、これもまたラーマクリシュナのことばを借りると、役者がね、役者が劇で、一人芝居をして、劇ごとに仮面を変えてるようなもんで、女の人の、娘さんの役をやるときはきれいな仮面をかぶって、娘の役を演じると。で、次に男の仮面をかぶって男の役を演じると。みんな同じ役者だということだね。
だからそれは何でもいいんだけど、とにかく絶対なる完全なる境地――それは存在といってもいいし、境地といってもいいし、それはがマヘーシュヴァラですね。だからこれは、もうちょっと現実的な読み方をすると、この場面っていうのはつまり、アルジュナが――まあ前回からそうだけど、アルジュナが戦争の参謀として呼んできたクリシュナっていう人が、いろいろ教えを説いてると思ったら、「私はマヘーシュヴァラだ」とかいい出した(笑)。つまり、私に帰依しなさいと。
だからこれはもう、ちょっと具体的な話になってくるんだけど、この場合はね。クリシュナっていう人物が本当に目の前に現われてて、私の本性っていうのはクリシュナだと。で、その正体っていうのは、全てを包含し、偏在し、全てを自在に操ってる、大自在主、マヘーシュヴァラなんだよ、ということをいってるわけだけど。
だからわれわれとしては目の前にクリシュナがいるわけではないので、それはまあ、自分の好きな神とかに対してそれを投影すればいい。
結局そういった確信というか、帰依というか、信仰っていうか、それは非常に重要なんだね。で、これはヴィヴェーカーナンダも言ってるけど、本当の信仰、帰依に達すると、いわゆる宗教戦争とか、議論とかいうのはなくなるんだね。だって、全てに偏在してるんだもん(笑)。
変な言い方すれば、例えば、ヒンドゥー教の敵であるイスラム教徒というのがいたとしても、イスラム教徒もクリシュナなんです(笑)。だから全てが愛で満たされるっていうか。これが本当の意味での帰依の道なんだね。バクティの道っていうか。でもそれを知らない頑なな信仰者は、この神、最高だけど、こっち偽者だよって、こういう見方をするから、いろんなけんかが起きる。これをヴィヴェーカーナンダは、それは低いバクティ、--ガウニ・バクティっていうんだけど--ガウニ・バクティだと。じゃなくて、真の、至高のバクティ、パラー・バクティの境地に至れば、それは全ての衆生への愛と、尊敬に変わると。で、そこに至らなきゃいけないってことを言ってる。で、もちろんこのバガヴァッド・ギーターも当然それを示してるわけだね。全てを平等に見る。全てを平等に見るって、いろんなやり方があるわけだけど、今言ったのが一つです。
シャーンティデーヴァとかのやり方も見るとね、一つの例えばやり方としては、全てを神と見る。これは一つだね。だって、シヴァにしろ、クリシュナにしろ、ブッダにしろ、全てに偏在してるんだから。偏在してるんだから、全部神だと。これが一つ。もう一つの別の見方としては、全てが神の愛する幼子だと。つまり神の愛というのは広大であると。神は、例えばEさんを愛して、Pさんを愛さないというのはありえない。あるいはバラモンを愛して、奴隷を愛さないというのはありえない。完全に全てを平等に愛している。ということは、神、神の、あるいはブッダの最愛の息子たちに、私が憎しみとか、あるいは苦しみとか、与えるわけにはいかないと。神のみんな最愛の息子なんだから、私も彼らを全力で幸福にしたいと。愛したいと。こういう見方ね。これもまた別の、平等に見るっていう見方です。あるいはもうちょっと理性的に、いやあ、全てはカルマの法則によってね、関係ができてるけども、本質的には全て同じ真我だと。一時的に、カルマの法則によっていろんな関係ができてるように見えるだけだと。そういう意味で、理性的に平等視してもいいし。いろんなやり方があるんだね。
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