◎唯一の本質に、常に覚醒し続けよ
◎唯一の本質に、常に覚醒し続けよ
【本文】
『それに覚醒し続ける人、それと自我とを結びつける人、それにしっかり帰依する人、それを至高の境地とみなす人は、
完全なる叡智によってすべての罪汚れを清め、生死輪廻の必要のない解脱の境地へと到達する。』
はい。これはつまり、これはまさにマハームドラー、ゾクチェンの世界ですね。一切このカルマとか、現世とか、この幻影の世界と関係がない、最初から最後まで完全に純粋な心の本質、といってもいいし、至高者といってもいい――その唯一の本質に、常に覚醒し続けなさいと。常に、自分とそれとを結び付けなさいと。あるいは、帰依しなさいと。それを思考の境地とみなしなさいと。これはまあそれぞれちょっと段階は違うわけですが、さっきも言ったように、完全にそれに覚醒したら、われわれはそれと一体化する。
つまり、われわれの本質っていうのは、全く今われわれが――例えばわれわれが概念っていうのを持ってるわけです。私は――例えば私はPで、アメリカ生まれで、中国で勉強してとか、いろいろあるわけです。で、人からこういうふうに思われてるとか、自分はこう思ってるとか、自分の得意分野はこれだと、いろいろあるわけです。そんなの全然関係ないんだと(笑)。私の本質は、Pではないと(笑)。私の本質はアメリカ人でもない。人間でもない。何だと(笑)。至高者だと(笑)。
(一同笑)
でもここで勘違いしちゃ駄目だよ、勘……
(一同笑)
勘違いして、「いやあ、おれは至高者だあ」って(笑)。
(一同笑)
そういう世界じゃないよ。そういう世界じゃない。それはみんな分かると思うけど(笑)。完全に私の本質っていうのは、何らこの宇宙のマーヤーとは、幻影とは関係のない、光り輝く唯一の本質なんだと。それを、それをまあヨーガでは「真我」とか、あるいは「ブラフマン」とかいってるわけですが、で、それをまあ、何ていうかな、完全にそれを常に悟ったらもう、完全な解脱者です。しかしわれわれはそこまではいけない。いけないから、最初はもうイメージとか想像でしかないんだけど、常に――まあ、これはいろんなパターンがあるね、まず、帰依する――帰依するっていうのは、常に心の中に、その絶対的な存在を思い浮かべる。それはねえ、それぞれのカルマがあるから何でもいいよ。例えばシヴァ神でもいい。クリシュナでもいい。あるいは、如来でもいいね。あるいは、いろいろ仏教で定義されるようないろんな仏様でもいい。何でもいいけどそれを、完全なる――完全なるっていうのは、いろんな人の一人っていうんじゃなくて、もう全ての本質であるというふうに思って、それに対して常に帰依の心を持ち続ける――っていうパターン。
そしてそうじゃなくて、いや、私の意識っていうか、私の本質も実はそれなんだと。私の本質も、何らあらゆるものとは関係がない、もとから覚醒してるそれなんだと。まあ、でもこの段階では本当に覚醒はしてないんだけど、少なくとも概念的にそういうことを理解して、常にそこに心を合わせ続ける。そしたらね、完全にいろんなことから解放されないまでも、何十パーセントかは解放されます。
ていうのはさあ、自分っていうこだわりがあるから、われわれはとらわれるわけでしょ。例えば、誰かが馬鹿にしてきたと。で、例えば自分が自信があることをやってたとして、それに門外漢の人が「ええー、それは……」とか言ってきたときに、「え、君何が分かるの?」と。「おれはこれだけやってるんだあ」。……でもハッとして、「いや、おれはこれだけやっても何でもない」と(笑)。「おれは至高者と一緒だ」と(笑)。
(一同笑)
「おれは全てに偏在してる、宇宙の本質だったから、ここにとらわれてもしょうがない」と思ったら、完全になくなんないけども、ちょっとは弱まるんだね。そんなにこう、あんまりとらわれないっていうか。
だから日々生きてて、いろんな嫌なことやいいことがあったとしても、そういうふうに思う努力をするんだね。
◎女中のように
でもこれもいつも言っているように、シャーンティデーヴァがいう「念正智」の世界です。だから私はね、仏教とかヨーガ、いろんな教えがあるけど、一番重要なっていうか、必要な教えは何だっていったら、念正智だと思うんです。念正智っていうのは、二十四時間、まあそれはどんな教えかは別にして、ある教えから決して心を離さない。これが一番大事なんです。
ていうのは、そこに何の教えが入るかは別だけどね、どんな素晴らしい教えがあったって、まずそれを理解しなかったら意味がない。実践しなかったら意味がない。実践できたとしても、一日のうち五分しか実践してないんだったら意味がない。一番大事なのは、いかにそれを二十四時間実践できるように、自己を観察して、自己をそこに結びつけるかなんだね。これが一番大事です。
それはいろんなパターンがあるわけだけど、ここでいってるのは、何度もいうように、この宇宙の本質、あるいは全ての本質である至高者の境地。これが最高であり、それが帰依の対象であり、同時に、最終的にはそれ自身が、自分はそれと何ら変わらないんだと。今私が自分だと思っているこんなものっていうのは、体とか、概念とか、名前とか、そんなものは実際、自分と関係がないんだと。関係がないんだけど、神の意思により、今この道具を使って、今いろんな経験を私はさせられてると。それは喜んでそれはそのままやるんだけど、全く関係がないんだっていうことを、悟りながらやらなきゃいけないんだね。
ラーマクリシュナが、これについては素晴らしい例えを言ってるよね。君たちは女中のようであると。女中ね。召使。召使。その召使っていうのは、私の――私、小さいころおじいさんが、そんなでかくないんだけど、会社をやってて、で、それは一族でやってる会社なんで、みんなお父さんお母さんたちは昼間その会社で働いて、で、子どもたちがね、みんなおじいちゃんちに預けられてたんだけど、昼間ね。で、そこでは社長の家だから、ちょっとある程度大きくて、で、お手伝いさんがいるのね。で、そのお手伝いさんていうのは、遠くから来てるんだけど、完全に泊まり込みじゃないんだけど、二、三日泊まり込んで、週に何回か帰るっていう生活を送ってたんだけど。で、私もだからそのお手伝いさんに育てられたりしたんですよ、小さいころ。で、そのお手伝いさんっていうのは、もう、特にそういった住み込みでいる場合ね、もうその家を自分の家のように扱う。つまり、その家の子どもは自分の子どものように、「ああ」――その子が怪我をしたりすれば、「ああ、かわいそう」と。「ああ、なんとかちゃん」っていって育ててくれるわけだよね。で、その家のいろんな喜びも一緒に喜び、いろんな苦しみを一緒に苦しみ合ってんだけど、女中の心は、召使の心は常に実家にある(笑)。それは、分かってる、自分で。本当の家じゃないって分かってる。本当の家じゃないけども、仕事だからやってる(笑)。
これと同じ意識を持って生きろといってるよね、ラーマクリシュナは。素晴らしいね。つまり、一応仕事――仕事っていうか神の意思だから、この世で、例えばEさんだったらEという役割を演じてるんだけど、常に心は、実は私は神の国の至高者と一体化した存在に他ならないと、それが本当の私だと――というのを常にこっち側に置きつつ、一応やるべきことをやるんです。これが、カルマ・ヨーガだね。
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