◎吟味
◎吟味
【本文】
あらゆる行為をするときに、心の中でよく吟味することを学べますように。
自分と他者を危機に陥れる思いが起こったならば、すみやかに断固としてそれに立ち向かい、退散させることができますように。
この部分はピンポイントというよりも、日々われわれが実践しなければならない部分です。
「あらゆる行為をするときに心の中でよく吟味する」。
つまりこれはよく言っている言葉でいうと、「念正智」です。
これもね、シャーンティデーヴァも同じことを言っていますが、さあ、わたしの今行なおうとしている行為――ここでいう行為っていうのは身・口・意だね。身・口・意っていうのは、実際の体を使った行ない。それから言葉。それから心。つまり実際の行ないだけではなくて、つい出てしまう言葉とか、あるいは心の中を巡る考え。そのすべてにおいて吟味しろといってる。
だからもうちょっというと、念正智なので、監視してチェックしろっていうことです。その基準をいうならば、「エゴの破壊」と「四無量心、慈悲の心」です。
つまりリアルにいうと――さあ、わたしのエゴは増大していないかな? わたしは衆生に慈悲を持っているかな?――これが基準なんだね。
つまり例えば、何か思いが湧いてきたとき、「これ、エゴじゃないかな?」あるいは、「本当に慈悲に基づいているかな?」「みんなのこと考えているかな?」こういうチェックをひたすら行なうんだね。
行動はもちろんだよ。行動において何かやろうとしたときに、常にチェックする。ここで祈り的に、「吟味することを学べますように」って言ってるのは、それがとても難しいからなんです。二十四時間自分を監視するのは、非常に難しい。たまに思い出して監視するけど、いつの間にかよくないことをやっちゃってるんだね。
◎自己の身口意をチェックする訓練
これも前に何回か話したけど、あるチベットのお坊さんの話でね、ある信者の家に行ったら信者が留守だったと。で、その信者にいつもお茶をね――チベットは紅茶に塩とバターを入れて、バター茶とかを飲むわけだけど――その紅茶をいつももらってたんで、今日もくれるだろうと思って来たんだけど、その信者がいないから、じゃあ勝手に持っていこうかなと思って、お茶の葉の袋に手を突っ込んだ。この瞬間この聖者は――この聖者は、つまりわれわれよりは念正智ができている人だった。突っ込んだあとにハッとしたんです。「おれはいったい何をやってるんだ!」と。「おれは傲慢にも、信者のものを自分のものだと考えて、盗もうとしてる」と。こう気付いた瞬間、彼は、手をそのままにしておいて、みんなを呼んだんです。「みなさん! 大変です! 泥棒です!」(笑)。みんなが、「どうしたんですか?」と。「泥棒です!」――(自分を指差して)「泥棒です」と(笑)。「この腕を切ってください」と言ったっていう人がいて。
この人は、ちょっと遅れた。つまり五秒ぐらい遅れたけど、念正智ができた(笑)。でも五秒遅れても念正智できたっていうのは、すごい。われわれは終わった後に気付くんだね。
例えば昨日まで「慈悲ですね」とか言っていた人が、つまんないことで怒って、人にバーッてひどいことを言ってすっきりした後に、「おれは何やってるんだ」と(笑)。「おれはひどいことをした」と。今ごろ気付くなと(笑)。
でも本当にそうなんです。カルマによってその世界に入っちゃってるときは、もう駄目なんだね。だからそれに対抗するために、普段から自分の行動、言葉、心をチェックする訓練をしなきゃいけない。
行動でさえ、今言ったように忘れてしまうから、言葉や心なんてなかなか大変だよね。言葉は、最近Cさんが綺語言わないように頑張ってるけど、言葉ってぺらぺらぺらぺらって出てしまう。「はっ! わたし今変なこと言っちゃった」と。これもちゃんと考えながらしゃべる。
あるいは、一番大変なのはもちろん心だね。心の動きっていうのは、本当にもう際限なくバーッと出る。人に対する嫌な思い。あるいは否定的な思い。あるいは昔の修習みたいなね、現世的な考え方。放っておくとどんどん出てくる。だからそれを徹底的に監視するんです。よく吟味して、この考えは正しいかな、この言葉は正しいかな、この行ないは正しいかなっていうのを吟味して、できますようにっていうのがこの祈りだね。
だからそれは逆に言うと、そうしなきゃいけない。
◎自分と他者を危機に
そして、「自分と他者を危機に陥れる思いが起こったならば、すみやかに断固としてそれに立ち向かい、退散させることができますように」。
この「自分と他者を」っていうのが面白いね。この自分と他者を危機に陥れる思いっていうのはつまり、悪業全般のことです。つまり、悪しき行ないや悪しき思いっていうのは、例外なく、自分と他者にマイナスなんです。自分にもマイナスだし、周りにもマイナスです。
例えば誰かに「あいつ憎い」と。「あいつ傷つけてやりたい」「悪口言ってやりたい」――これは、悪口言われた方も苦しいし、悪口を言った自分も、悪口っていうカルマによって心がけがれる。地獄への道を歩む。当然どっちにとっても駄目なんだね。
で、もうちょっと深くいうと、特に菩薩の道を歩いてる場合ね、菩薩の道を歩いてる場合、これもいつも同じことを言うけども、責任がある。責任があるっていうことは、自分がけがれるっていうことは、自分と縁のある人がなかなか救われなくなってしまう。つまり、早く自分がもっと心をきれいにしないと、次に待っている人に教えを与えられない。
さっきから言っているように、自分が優れてて他の衆生が劣ってるってことはないんだよ。すべては平等なんだけど、ただ、役割はあると。役割ね。つまり役者みたいな感じで、劇みたいな感じで、今生のこのドラマの中では、例えばMさんが救済者役(笑)。Mさんの友達の例えばA子さんっていう人が、次にMさんに教えを受けて救済者になる役――とか決まってるわけだね。つまりそれは役割だから、本質的な魂としては平等なんだけど、その役割が今セッティングされてる。最初のMさんが頑張らないと、後がつかえてるんです(笑)。つまり、次の人が長く苦しまなきゃいけない。あるいは最終的に、今生救われないかもしれない。頑張らないとね。
だから、頑張るってどういうことかっていうと、つまり徹底的に自分の心を浄化しないといけない。それなのにMさんが、心の中に悪い思いをいっぱい浮かび上がらせて、悪い状態になったりしたら、それはMさんにとっても――Mさんがそうだってことじゃないよ。例だからね(笑)――Mさんにとってもそれはマイナスだし、Mさんに救われる役目だった人も救われないから(笑)、大変なマイナスなんだね。だからそういう意味でも駄目だね。
◎断固として退散させる
だからこれはいろんな何重もの意味があると思うけど、自分の中にもし怒りなり、嫉妬なり、プライドなり、執着なり、いろんな悪い思いが起きたとしたら、それは自分プラス周りにとって大変なダメージだということを認識して、断固として――もう本当にね、力強く、ここに書いてあるように――断固として退散させろと。
シャーンティデーヴァとかもそうだけど、こういう系統の教えってすごく力強く書かれています。断固として退散させろとか、あるいは徹底的に打ち砕けとか、あるいは破壊しろ、とかね。そういうイメージが必要だね。なんとなくほわーんと、「ああ、なんか変なの来ちゃったなあ……どうしようかなあ……」じゃなくて、断固としてバッてこう立ち退かせろと。
ちょっとわたしの個人的なことをいうと、わたしの中にちょっとそういう変なのが出てきたときによくやったイメージは、もうつかまえて、本当に叩きつぶすようなイメージだね。
人によってはさ、たとえばある人は、消しゴムで消したって(笑)。
(一同笑)
なんか変な思いが湧いたときに、消しゴムを登場させて、こう消したって(笑)。だからまあ、人によってでいいんだけど、それくらいの――「ああ、しょうがないな」じゃなくて、もう断固として戦うイメージというかね。
まあ、女性はちょっとイメージしづらいのかもしれない、そういうのは。男性は、わたしとかもそうだったけど、小さいころからそういう戦いのマンガとかばっかり見てるから(笑)、当てはめやすいんだね。当てはめて、煩悩をガーッと叩き潰すイメージとかやりやすいから。
でもそういうような、強いイメージが必要だね。「そういうものは一切、わたしの心の中に立ち入らせないぞ!」と。
◎神の応接間
この心の訓練っていうのは、いろんな応用もできるわけだけど、バクティ的に考えると、わたしがよくやったのは、わたしの心の中には常に神を――神っていうのはブッダでもクリシュナでもシヴァでもいいんだけど――偉大な神をお迎えしているんだと。わたしの心の中には常に神がいると。いつも神を観想するんだね。自分の心にいつも神を観想する。具体的にね。クリシュナだったらクリシュナを思い浮かべて、神を常に観想すると。
つまり、わたしの心は神の応接間であると。ということは?――汚くしてられないと。つまり、神の応接間なんだから、一瞬たりとも不浄なものはそこに置けない。自分の心には不浄なものは置けないんだっていう感覚ね。
これによって、ちょっとでも不浄なものが侵入しようとしたら、「あ、駄目だ!」と掃除すると(笑)。これはちょっとバクティ的な「心の訓練」ね。
あるいはまた別のパターンでいうと、わたしがよくやったのは、そういった神とかブッダとか、あるいは自分の好きな聖者とか、もちろん自分の師匠でもいいけども――に、いつも見られてるっていう感覚です。これも入菩提行論に書いてあるけども。
これはね、自分の称賛欲求とか、逆の卑屈さとかプライドとかを落とすにも非常にいい。どういうことかっていうと、そういうのが強い人って人の目を気にするじゃないですか。わたしはこう思われてるんじゃないかとか、こう思ってほしいなとか、こう思われたら嫌だなとか。で、そんなのはどうでもいいと。なぜならば、みんな無智だと。みんな無智だから、わたしのことを正しく理解できる者はどこにもいないと。というよりも、理解される必要はないと。みんなカルマによっていろんな誤解をしたりとか、あるいは愛を持ったりとか、いろいろするわけだから、それはカルマに任せればいいと。しかし、ただ一つ神だけは、あるいは自分の好きな聖者がいるとしたらその聖者だけは、わたしを常に見守ってくれていると。見守ってくれてるっていうととてもかっこいいけども、逆の言い方をすれば、いつも見られてると(笑)。
しかもですよ、しかもその神やブッダや聖者は、偽りが通じない。つまり表面的な態度や、表面的な言葉は通じない。本心を見られてしまう。よって、心からその神やブッダや聖者に恥ずかしくない自分を保たなきゃいけない――っていう発想だね。
逆にいうと、わたしは別に誰から誤解されてもかまわないと。誰からどう思われてもかまわないと。しかし神にだけはかっこつけたいと思うんです。神にだけは優等生でいたい。神の前でだけは、いい子でいたい。神にだけは、「お前、いい子だな」って言ってもらいたいと。でもさっき言ったように、神は見抜くから(笑)、適当な変なことばっかり考えていて、表面だけ「わたしは慈愛でいっぱいです」ってやっても全く駄目だと。本当に心から慈愛でいっぱいになり、心からエゴをなくさないと、神は褒めてくれないと。よって、そういう思いだね。いつも見られてると。神に恥ずかしくないように生きようと。これもまた念正智だね。心の訓練になる。
でもこういうのは、今言ったいくつかのパターンっていうのは、全部ある意味で大雑把なんです。大雑把でもいいんだけどね。これはベースとしてはいいんだけど。今言ったいくつかのやり方を、みなさん気に入ったものを取り入れてね、普段から思うっていうのは、とてもプラスになります。プラスになるけども、さっきから言っているように、自分でも気付けない細かい部分がたくさん出てくる、日々日常のなかでね。それをいつの間にか駆逐してくれるのが、こういう心の訓練の教えなんです。
はい、この部分は分かりますね。だからこれは、いつもそういうことは考えてなきゃいけないわけだね。常に自分をチェックして、変な思いが湧いてないかをチェックすると。そしてもしそういうのが湧いたならば、断固としてそれに立ち向かい退散させると。その心構えを常に持つっていうことですね。
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