yoga school kailas

◎五種類の心の作用

【本文】
ヴリッタヤハ パンチャタッヤハ クリシュター アクリシュターハ
 
心の作用には五種類ある。それらは煩悩性のものと、非煩悩性のものとがある。

プラマーナ・ヴィパリヤヤ・ヴィカルパ・ニドラー・スムリタヤハ

それは、正しい知識、誤謬、分別知、眠り、念(記憶)である。

 はい。その心の動き、作用というものをここでは五種類に分けている。これは最初に言ったように、ヨーガ・スートラの分け方なので、あまりとらわれなくていいです。仏教とか他のヨーガ哲学とかで、いろんなそれぞれの分け方をしているので、これはヨーガ・スートラ独特の一つの分け方だね。それはこの五つに分けていますよと。

◎正しい知識・誤謬・分別知

【本文】
プラティヤクシャーヌマーナーガマーハ プラマーナーニ

直接経験による知識、正しい推理による知識、聖典に基づく知識が、正しい知識である。

ヴィパリヤヨー ミティヤージュニャーナマタドルーパプラティスタム

誤謬は、真の性質に基づいていない、偽りの知識である。

サブダジュニャーナーヌパーティー ヴァストゥスーニョー ヴィカルパハ

言葉上だけの知識に基づいていて、真実性を持たない言葉が、分別知である。

 はい。まずは最初の三つを説明しましたが、まず一番目、正しい知識といわれる心の作用。
 二番目、誤謬イコール偽りの知識。
 三番目が分別知、言葉上だけの知識――とありますが、ちょっと説明すると、最後の分別知というのは、仏教でも分別知という言葉を使いますが、ここでいう分別知は仏教でいう分別知とは全く違います。言葉は同じなんだけど定義が違うんだね。
 簡単にいうと、一番目、正しい知識。二番目、誤りの知識。三番目は概念だけの考えとか心の作用――つまり実体がないので、正しいとも正しくないとも言えないというか。
 これはいろんな人がいろんなタイプの解釈をしているので、私が今から言うのも一つの解釈として聞いて欲しいんですが。浅い意味と深い意味があると思います。
 まずは深い意味から説明すると、正しい知識というのは、これはつまり真理の知識だね。この世の実相というか、この世の真実を心が知ったりとか、それについて考えたりすることが正しい知識。
 で、誤った知識、二番目の誤謬っていうのは、これはこの観点からいうと、つまり深い意味でいうと、その他――つまり、普段われわれが見たり聞いたりするものすべてがこの誤謬に入ります。例えば「私は人間である」とか、あるいは「ここはアパートである」とか、あるいは「生きてる」とか、そういった常識的な普通の知識はすべて間違いであると。これが二番目の誤謬だね。
 で、三番目は――二番目っていうのは、われわれが錯覚によってこのカルマによって生じた幻みたいな世界を現実と錯覚しているということなんだけど、三番目というのは、別にそういうのもなくて、ただ頭の中で展開される空想といってもいいね。これはちょっと説明しづらいというか、例も挙げにくいんだけど、例えば私が突拍子もないことを考えたとするよ。ちょっと極端なことを言うけどね、「K君に羽が生えて飛んでっちゃったらどうしよう」とか私が考えたとするよ。「羽が生えて飛んで行っちゃったら悲しいなあ……」とか考えてたとして、意味ないじゃないですか(笑)、全く。羽が生えて飛んでいってないんだから、別に。そのような言葉の概念だけのいろんな心の働きがある。
 例えばこのマイクというものを見た場合に、これはマイクっていう一応私たちが知覚しているものがある。これは真実なのかどうかとか、ここはこのマイクを実体だと考えるのは誤謬だと、このマイクの本性を見抜くのが――つまり一切は空であるとか、心のあらわれであるとか見抜くのが、真実の知識。で、三番目っていうのは、こういった実体のあるわれわれの経験とかそういうものを対象としていないんだね。全く心だけの言葉だけの概念的知識というか。これが三番目。
 だからこれも「ああ、そうなのか!」っていうよりは、まあ、さらっと流していいです(笑)。ここを追求しなくてもいい。追求したかったらしてもいいけど――つまり、みなさんの中でもし「おれはヨーガ・スートラを根本にする」と。すべての教えの中でヨーガ・スートラを根本にして他のことを考えるっていう人がいたら、追求してください。でもそうじゃないなら追求しなくていいです。ここでいう分別知とは何だろうってあんまり突っ込まなくてもいいと思う。ある程度にしておいてね。
 はい、今言ったのは深い意味。浅い意味で言うと、これはもうちょっと現実的な、われわれが普段経験していることで、例えばよくたとえとして出されるのが、ロープを見て、縄を見て、蛇と勘違いする――これが誤謬だね。
 よーく見て、ロープだと、縄だと認識する――これが正しい知識です。
 これは浅い意味。つまり現実的な普通にわれわれが事実をちゃんと認識するのが正しい知識で、事実を誤って認識してしまう心の働きが、間違った誤謬ですよと言っているに過ぎない。その浅い意味と深い意味があると思います。
 はい、そして、その正しい知識にも三パターンありますよと。それは直接経験と推理と聖典ですよと。これも深い意味と浅い意味があります。
 深い意味でいうと、直接経験による知識――これは瞑想経験、あるいは修行が進んで悟りの経験。例えば輪廻転生ってあるんでしょうかと。修行していたら仏教でいう宿明通が身について、自分の過去世を思い出したり、あるいはいろんな世界に飛んでいって輪廻のしくみを実際に瞑想で見る――これが直接経験。これによって「ああ、輪廻転生は実在した。カルマの法則にしたがって衆生は輪廻しているんだ」っていうことを、誰かに教えられたんじゃなくて、自分で瞑想とかで直接に経験してしまった。あるいは「神の世界ってあるんだろうか」と。瞑想で神の世界に飛んでいって、「あ、あった」と。これが直接経験の正しい知識だね。
 次、推理によるっていうのは、これはいわゆるジュニャーナ・ヨーガです。つまり分析――いわゆる高度な正しい分析によって真理を追究していく。例えば仏教の四念処みたいな感じで、わたしとはなんだろうかと。肉体であろうか? こうこうこうこうこうだから肉体なわけはないと。では感覚で経験されるものがわたしであろうか? それもこうこうこうこうこうだから、それも違う――って感じで、正しい分析をしていった結果としてたどり着く真理。これが推理による知識。ジュニャーナ・ヨーガですね。
 聖典に基づく真理。これは書いてあるとおりです。まだ自分自身ではそこに到達してないんだけど、でも信頼できる聖典――これは聖典じゃなくてもいい。師匠とか聖者でもいいです。聖者の言葉とか師匠の言葉とか、あるいは信頼できるこういったヨーガ・スートラなどの聖典に書かれている――まだそれを自分のものにはしてないんだが、学んで理解したという段階。これが聖典からくる正しい知識だね。
 これは深い意味です。
 浅い意味の場合は、これは現実的な話ですね。現実的な話っていうのは、直接経験というのは、現実世界でいろんなことを直接的に経験したと。例えば砂糖は甘いと。それは砂糖を実際に食べてみたと。そうしたら甘いと分かったと。もう経験しているから、甘いと。あるいはコカコーラを飲んだことがない人がいたとして、実際に飲んでみた。そうしたら、甘くかつシュワーッとするちょっと痺れがある。これを経験しましたと。これは直接経験の知識です。
 推理っていうのは、表示を見たりする。まだそれを飲んでないんだけど表示見たり、あるいは科学的に成分を分析して、飲んではいないんだが分析によって「これは甘く刺激的なものである」という結論に達する。これが推理の知だね。
 で、三番目が人伝えの知です。つまり信頼できる人の言葉。だからうそをつくような人は駄目だけど、本当にコカコーラを毎日飲んでいるっていう人で、本当にこの人は絶対にうそをつかないっていう人がいて、あるいは本でもいいよ。信頼できる本があって、「コカコーラは甘い」って書いてあったら、「ああ、甘いんだ」と――これは三番目。
 これはだから日常生活における正しい知識だね。これは浅い意味です。だから浅い意味と深い意味があるね。
 この部分だけでも分かると思うけど、あまりこういうことを――何度も言うけども(笑)――掘り下げる必要はないです(笑)。でも一応みなさんの知識として今やっているわけですが、もうちょっと先の方に瞑想の世界とかが出てきますが、あまりこの部分というのは掘り下げる必要がない部分だね。
 はい、そして、「間違った知識」っていうのはもう分かるよね。間違った知識っていうのは、深い意味で言ったらさっきも言ったように、われわれが普通に認識しているこの世界すべて間違った知識ということになります。浅い意味で言うと、さっきのたとえでいうと、コカコーラを他のものと勘違いしてしまう。例えば黒いからしょうゆだと思ってしまうとかね。これが誤謬――間違った知識、浅い意味でのね。
 はい、そして三番目が、そういう実体を対象としているのではなくて、ただ言葉上、あるいは概念上だけの心の働き。これを一応分別知といっています。ただ仏教などで分別智という場合、また全然違う意味になるので、ちょっとこんがらがっちゃうっていうか、ややこしいね。だからこれも、何度も言うように、さらっと通り過ぎて構いません。

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