◎すばらしい供養の修行
◎すばらしい供養の修行
もちろんすべての供養は素晴らしいんだよ。素晴らしいんだけど、段階があるんだね、やっぱりね。最初はすごく儀式にとらわれて、いやその供物は使えませんと。この神にこの供養をするには、こういうやり方じゃないとできないんです――っていう、そういうところから始まる。そこからだんだんだんだん、そういう枠組みが取れてきて、最終的には人生そのものが供養になってしまう。そうなったら素晴らしいね。
だから、みなさんの煩悩を破壊する、一つの手段としてもこれは使えます。最初からね、堕落した意識で煩悩肯定に使っちゃ駄目だけど、本当はそうじゃなくて、自分はいろんな愛著とか煩悩を捨てたいと思ってるんだけど、なかなか捨てられないと。どうしてもやってしまうと。いろんなことを。そういうときは供養すればいいんです。
例えば、Hさんみたいに、宝塚が好きだと(笑)。まあ、宝塚が悪いとは言わないけど、宝塚に行って楽しいと。楽しかったら、その宝塚のすべてを供養するんです。楽しみながら、ああって見ながら、「供養!」と(笑)。そこでね、否定する必要はないんですよ。私はもう宝塚断ち切ろうとか、そのときは思う必要はない。普段は思ってもいいけど、その楽しんでいるときは思いっきり楽しんで、供養するんです。
食べ物とかもそうだけどね。今日も本当はこんなに食べ過ぎちゃいけないんだけど――って後悔しながら食べるんじゃなくて、「美味い! 供養!」ってやってるとね、不思議と執着って落ちていくんです(笑)。本当に純粋な供養の心ができるとね。これはだから、一つの修行法だね。
(H)昨日、観ながら、ちょうどそう思ってたんです。
そう思ってたの(笑)? どこで?
(H)踊りを、歌劇を、供養すればいいんだって。思ってたとこだったんで、見てたようなこと言われて……(笑)
(一同笑)
◎縁の浄化
でもそうなんですよ。これはね、逆にね、こっちの方が高度なやり方だといってもいい。
もちろん、捨てるっていうやり方もいいんだよ。我慢して、私はそれをやらないんだと。これはこれでできるんなら、それはそれでいいんだけど。じゃあ、できない場合どうするのかと。ただ後悔の日々を送るのかと(笑)。そうじゃなくて、それは自分の今の条件として受け入れて、供養するんです。すべては供養だと。その辺はみなさん、自分でいろいろ自分なりに考えたらいい。
私もよくやったよ。自分でいろんな執着を供養すると。そのときにね、私はね――同時にちょっと懺悔もするんです。例えば執着の対象を供養すると。あ、でも、神よと。こんな変なもの供養して、申し訳ありませんと(笑)。
(一同笑)
あなたはこれがいらないでしょうが(笑)、どうか私を浄化するために、お受け取りください。――一応懺悔するんだね。本当のね、さっき言ったような三輪無分別智とかに達していれば、それはいらないと思うよ。だって、不浄なものは何もないんだから。この世でどんな不浄と思われているものだって、神にとっては全く不浄も浄もない。だけど、自分にちょっと後ろめたさとかがあるときは、こんなもので申し訳ありません、でも私の浄化のためにお受け取りくださいと(笑)。こういう感じで供養するんだね。これは一つのいい修行ですね。
少なくとも食べ物とか、前も言ったけど、普段われわれが否がおうにも経験すること。これは、自然に供養する訓練をしておくと、修行っていうのはすごく進むね。だって食べ物ってさ、変な言い方をすれば、われわれは食べずにはいられないわけです。食べずには肉体は保てないと。つまり、絶対一日一回は食べる。人によっては二~三回食べると。じゃあその時間を、もし供養という瞑想につなげることができたならば、まあ一日二日じゃああまり変わらないかもしれないけど、一ヶ月でも変わらないかもしれない。でも一年二年とそれをやってたら、その人は毎日毎日すばらしい供養の瞑想をしてるっていうことになる。これによって、私と食べ物との関係が浄化されます。私は今まで、何生も何生も、人間だったときも、豚だったときも、餓鬼だったときも、天の神だったときも、単なる味覚の喜びとしてこいつを見てたんだけど、それを今日からは供物として見る。神の供物として。これも神の供物。これも神の供物。これによって、私と食べ物のカルマ、縁っていうのは浄化されるんです。
これは他人に対してもそうだし、例えば女性って見た場合、私は何生も何生も異性っていうものを、セックスの対象――つまり性欲の対象としてしか見ていなかったと。しかし、例えば女性っていうものも、自分が執着するようなタイプの女性がいたら、神への供養とすると。あるいはそうじゃなくて、女性そのものを神への供養とすると――したならば、自分と異性との縁みたいなのが浄化されるんだね。これも一つの供養のメリットだね。
だから、すべては供養だと。これは非常に簡単な修行だけどね。簡単だけど、ずっとそれをできるかどうかは難しい。自分の経験するすべてのものは供物なんだと――考えて、捧げ物として、いろんな行為を行なったり、あるいはいろんなものを見たりする。
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