yoga school kailas

「解説『ただ今日なすべきことを』」第2回(5)

 はい。ほかに何か質問ありますか?

(T)今の話を聞いてたら、なんかバクティヨーガみたいな感じで、なんでもかんでも感謝したくなるような気持ちっていうのか……あるじゃないですか。そのときの状態となんかすごい似てるなあと……

 そうだね。だからバクティヨーガも、この世の真実をある面からとらえてるヨーガだから、確かにそうなっていくね。

(T)そのときはすごくその瞬間に集中できてる状態なんですか。

 そうそうそう。だからバクティヨーガはそれを、なんていうかな、答えの面から言ってるんだね。つまりその「今に集中すればこうなりますよ」っていうのは、これは方法論から言ってるわけです。バクティヨーガっていうのは答えから言ってるんです。「すべては神ですよ。すべては喜びですよ」って答えから言ってるんだね。
 でもだからね、バクティヨーガの失敗ってあるんです。その答えばっかり聞いちゃってるから、その気になっちゃうバクティヨーガ。これは駄目なんだね。あの、これはヴィヴェーカーナンダとかもそれを警告してて――ラーマクリシュナっていうのはいつも言うように、もう、なんていうかな、有史以来の人類の最大の聖者の一人と言ってもいいと思うんだけど、彼はもう本当に至高者の化身ともいわれるくらいで、完全なる悟りを得ていた。つまりバクティヨーガにおいても、完全なるその体現者であったわけだね。で、彼はもう本当に常に神と一体化して「ああ、神よ、神よ!」っていう状態にあった。で、それはもちろん最高なんだけど、ラーマクリシュナが死ぬ前とか、あるいは死んだ直後とかに、それをかたちだけ真似る人が出てきたんだね。つまりこう酔った感じになって、「ああ、神よー神よー!」とか言ってると。しかし実際は本当にそうなっているわけではない。もちろんそれはそれでいいんだけど。真似をするのも。でもじーっとその人を観察すると、心の中エゴだらけで、で、それを除こうとする努力もなく、ただ神よ神よとやっている。まあこれはいろんな宗教に見られるパターンでもあるね。キリスト教徒とかでも、日曜日に「ああ父なる神よ、父なる神よ!」とか「懺悔します」とかやってて、ウィークデーは悪業三昧と(笑)。何も変わってないと。あとまあ新興宗教とかもそうだけどね。
 ヴィヴェーカーナンダはね、こういうことを言ってます――「そのような擬似的なバクティっていうのは長続きしない」と。長続きしないっていうのは、確かにその瞬間はいいんです。その瞬間は「神!」って感じになるんだけど、このムードが終わったら普通の人になります。で、悪業犯します。でもその神の前に行くと、「ああ神よ、すいませんでした」と。変わらないんだね(笑)。だからヴィヴェーカーナンダが言うには、「真のバクティには放棄と智慧が不可欠だ」って言ってる。つまり現実的にいろんなものを断っていく、自分の中から捨てていく放棄の修行と、それから何が真実で何が間違ってるのか――そのような智性の修行。この智性の修行と放棄の修行がしっかり土台となって、真のバクティが生まれる。
 つまりこの三つっていうのは、ヨーガの三つのパターンなんだね。放棄のヨーガ、それから智慧のヨーガ(ジュニャーナヨーガ)、それからバクティヨーガ。この三つっていうのは、バラバラに語られがちなんだけど、実際はちゃんとそろわないと完璧にはならない。それぞれ、なんていうかな、素質があると思うんだね。バクティの素質がある人、でもあまりジュニャーナヨーガとか放棄がない人。ジュニャーナヨーガ的な素質、つまり知性は高いんだけど、バクティとか放棄は苦手だっていう人。あるいは、放棄、すべてを放棄する心はとても強いんだけど、まあ知性とかバクティは苦手だっていう人――いろいろあると思うんだけど、それぞれどの道を歩もうが、そのほかの二つの道もちゃんと高めないと、なかなか完成には至らない。
 で、逆に、なんていうかな、間違った方に行く可能性もある。例えば例を挙げると、ジュニャーナヨーガが偏ってしまうと、ただの頭でっかちになります。つまり神の、言葉では表わせない真実みたいなものを直感的にでも理解してないと、本当のジュニャーナヨーガっていうのは駄目なんです。あるいは放棄っていうのがちゃんとないと、頭でこねくり回してるだけで、なかなか真の悟りは得られない。
 で、バクティーヨーガもそうで、「ああ、神よー!」とか格好だけやってても、本当に心の中から神以外のものを放棄するということができていないと、そして智性によって真と偽を見極める目がついてないと、正しいバクティには至らない。
 だからそこら辺をね、はき違えてた弟子が多くいたので、ヴィヴェーカーナンダはすごくそこを注意した――っていう話がある。だからそれは、みんなも注意しなきゃいけないところだね。

 だからもう一回話を戻すと、まさに同じなんです。で、バクティヨーガは、さっきも言ったけど、結果を言ってるんだね。で、結果を言ってるから、間違う危険もある。つまり本当は結果に達してないのにその結果に達したような雰囲気になってしまう危険性があるんだけども、でもそこから入る道もあるんだね。そういう感じで自分をそういうムードに持っていって、そこから自分の足りない部分を補っていけばいい。
 でも何度も言うけど、ジュニャーナヨーガにしろ、バクティヨーガにしろ、放棄のヨーガにしろ、まああるいはここでやってるようなクンダリニーヨーガね――これにしろ、最後は同じところにいきます。つまりさっき言った、本当に純粋な瞬間瞬間の喜びに没入するような感じになります。その方法論の違いだね。
 だから今言った、今のこの瞬間に集中するっていうのは、そういう意味でいったらどのヨーガをやる上でも当然必要なものとなってくるでしょう。
 ジュニャーナヨーガやるにもやっぱりこの心構えがないと駄目だね。つまりその思索っていうのはやっぱり集中力だから。持続する集中力。思索と、想念の遊びみたいなのをごっちゃにしちゃいけない。普通の人が思索って言ってるものって、だいたい想念の遊びなんだね。ただイメージがいろいろグニャグニャグニャグニャ展開してる。それで「うーん、今日は思索しました」とか言って――いや、それはただの想念のグニャグニャした遊びっていうか。ジュニャーナヨーガの思索って、超集中力がいるんです。もうその、なんていうかな、「あれ、こうなのかな、ああなのかな、こうだったらどうしよう?」ってそんなの全部吹き飛ばなきゃいけないんです。だからよくスポーツとかさ、あといろんな仕事とかでもあるような、もうある種のサマーディだね。もう本当に周りの音が聞こえず、何も心にほかのことが浮かばないぐらいの集中力で思索しなきゃいけないんです。ジュニャーナヨーガの場合はね。だからすごくその、なんていうかな、あいまいな感じの思索じゃないんだね。
 で、もちろんバクティヨーガもそうです。バクティヨーガも、神だけしか心に浮かばないと。まああるいはすべてが――逆にね――すべてがもう神に見えてしまうと。それくらいの超集中力が必要なんだね。集中力っていうか、今この瞬間に集中する集中力だね。
 よくスポーツとかでさ、そういうのってよくあるよね。あまりにも集中が増して、音が聞こえなくなるとか、すべてが止まって見えたりとか。あるいはすべてがゆっくり動いたり――まあよくゾーンとか言ったりするよね。あるゾーンに入ってしまうとか。あれもだから一種の瞑想状態だね。だからあれに非常に近いんだね。ああいう感じで、今この瞬間に集中しつつ、さまざまなタイプのヨーガを行なうんだね。
 まあそれはだからとても、本当にそれができるっていうのはなかなか大変っていうか高度なことなんだけど。だから今日の話っていうのは、そこまでは要求してないけども、少なくとも日常生活でそういう意識を常に取り入れていったらいいね。うん。それはそれぞれのレベルでかまわない。とにかく今に集中すると。

 
 はい、じゃあ今日はこの辺で終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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