yoga school kailas

2006・9・3「解説・入菩提行論」読書会 その③


ヨーガスクール・カイラス 勉強会より
2006年9月3日 「解説・入菩提行論」読書会 その③

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

はい。ここまでで質問等何かありますか?質問、あるいは、関連する何か、聞きたいことでもいいですが。…………特にないかな。まぁ解説の解説だからね。質問の余地があんまりないのかもしれないけど。………………じゃあ次のところ、Kさん、読んでください。

先生「…はい。もしかすると、菩薩って素晴らしいなと、私も菩薩の道を歩きたいなと思っていた人が、これを読むと、えぇっ、聞いてませんと(笑)。つまりこれを読むとさぁ、リアルに考えると(笑)、つまり、あのー、ちょっと言い方を変えるとね、さっきも言ったけど、ある人が例えば解脱しましたと。宇宙からすく…宇宙というかこの苦しみの輪廻から救われましたと。はい、二番目の人も救われましたと。はい三番目の人も救われました、どんどん救われましたと。で、最終的に全ての魂が救われる日がやって来るでしょうと。
 で、ここで言っているのは何かって言うと、菩薩の道を歩く者っていうのは、あのー、つまりその、最後の一人が苦しみの世界から逃れるまで、私は、見届けますよと。その手伝いをし続けますよと言っているんだ。これは、ふって読むと、あぁかっこいいなぁって思うけど、よーく考えると恐ろしい宣言なわけだね(笑)。最後までいますよと(笑)。まぁ安楽に自分はもう、入れないわけだから、最終的に。つまりちょっと、例えば、この宇宙最大の落ちこぼれが最後の最後に解脱するまで、面倒見ますよと(笑)。言ってるようなもんだから、相当なことなわけだね。でもねぇ、この言葉にもねぇ、トリックがあると思うんだよね。
 あのー、これよく考えたら分かると思うんだけど、でも、菩薩の道を歩む者がみんなそう考えているってことは、だよ?しかもですね、あのー、これはちょっと考え方にもよるけども、さっきも言ったように、完全な解脱を得るためには、やっぱりねぇ、菩薩の道を歩むしかないと思うんだね。ということはだよ、全ての魂が菩薩の道に入ると思うんですよ。っていうことは、菩薩の道に入ったってことは、みんなを救うまでは輪廻を離れないっつってるわけだから、一番最後は、みんなで手をつないで入んのかなって気がするんだよね(笑)。だってみんな最後までいるんだから(笑)、ね。そういう感覚はあるんだ。うん。

 ちょっとあの、話がずれるけども、私ねぇ、前ちょっとこういうことを思ったことがあって、あのー、菩薩道を歩く時ね、やっぱり心の中で、いつもトンレンとか慈悲の瞑想でやっているように、あのー、全ての魂の苦しみよ私に来いと、そういう強い思いを持つわけだね。この宇宙のあらゆる苦しみよ、来いと、もう本気で思うわけです。あのー、もう、この宇宙の果てとか、地球の果てで、色んな形で苦しんでいるその苦しみの、カルマよ全部来い、と。
 で、それは、もちろん自分的には、なんとなくエゴが嫌がるわけだね、本当に来たらどうしようとかね(笑)、あのー、思うんだけど、思いきってやるわけです。修行として。来いと、どんどん来いと。でもね、ある時からねぇ、でもこれを言うと、あの、えーーーって思われるかもしれないけど、ちょっと打算的に、安心したことがあるんだ。なぜかって言うと、あのー、私も、苦しみ全部来いと思っているが、私よりもっと優れた菩薩たちも思っているんだね。で、彼らの方が心の力が強いから、私がどんだけ思ってもあっちの方に行くんじゃないかって気がして(笑)。まぁこれはちょっとね、冗談みたいな話なんだけど(笑)。
 だからでも、逆に言うとね、それで安心したんだちょっとね。あのー、安心したってちょっと変だけど(笑)、どんだけ強く思っても大丈夫だと。
 それはだから、私の、ちょっと、私自身のエゴに対する、なんていうかな、仕掛けだったと。お前大丈夫だよと、お前がどんだけ思おうとも、より優れた菩薩がいるから、お前思いっきり思っても構わないよと。
 これはねぇ、このやり方が合う人は、みんなもそういう風に思った方がいいよ(笑)。どんなに俺が思ったって、もっと凄い菩薩がいるから(笑)。ね。つまりねぇ、ちょっと、なんっていうかな、本質的なことを言うと、そこで本当に衆生の苦しみがこっちに来るかどうか、っていうことは、実は二次的なことなんだね。このトンレンとか慈悲の瞑想がやろうとしているのはまさに、我々のエゴの破壊であって、あるいは、エゴの逆転なんです。つまり、いかに、私の自我を喜ばせようかって思っているエゴを、いかに衆生の苦しみを吸い取ろうか、自分の幸福を人に与えようかっていうとこまで、大改造しようとしているわけだね。でそのプロセスと、その、なんっていうかな、仕組み自体に意味があるっていうかね。それに関してはまたこの入菩提行論の後の方でもそれに関して色んな例を挙げて出てきますが…。

 はい、とにかく菩薩っていうのは、そのような強い思いを持ち、つまり、衆生の数に限定をおかない、つまり、五百人とか千人とかじゃなくて、まぁここでの例えっていうのは、例えば、あ、お客さんが来ましたと、じゃあ今日もてなしてあげましょうと、ね、一晩もてなしてあげようと、ね。でもこの場合当然、一晩という限定があって、あるいはお客の数にも限定があると。でもこれでも素晴らしいよと。ね。当然、素晴らしいわけですよ、人をもてなしているわけですから。
 しかしそれは、あらゆる意味で限定的であると。ね。菩薩っていうのは、まず、そのもてなし方自体が全く違うと。食べ物をあげるわけではなくて、悟りによって衆生に真の幸福を与えようとしている。そして、人数も限定がない、つまり、あらゆる…」

※テープ切り替え

先生「だけども、密教の戒律でね、たった一人に慈愛、たった一人に対して慈愛を捨てたら、はい密教終わりです、っていう戒律があると。ね。
 その、あのー、ねぇ、全ての魂よ幸福であってくださいと。でもこの人はいいやと、ね(笑)、これだけで密教の修行はダメになるんです。だから密教ってねぇ、ちょっと話がずれるけども、あの、密教って色んな変なことやってたり、特殊なことやってパーーっと解脱できる凄い道だと思っているかもしれないけど、完璧な大乗仏教の上に乗っかる、よりハードな菩薩の道なんです、本当は密教ってのは。だから、そうとう戒律とかも厳しくなってくる。あのー、だからもう一回言うと、その人は仮に、例えば、この宇宙の、かなり多くの人に素晴らしい慈愛を持っていたとしても、たった一人に対して慈愛を捨てただけで、もう密教の修行はダメになってしまう。それくらいこう厳しく言われている。
 だから菩薩の道っていうのはそういうもんなんだね。あの、一切の例外をおいてはいけない。
 で、期間についてもそうだと。ここまで頑張れよとか。もちろんさぁ、なんていうか、段階があるから、まったくそういうのやらないよりはいいよ。例えば、私は、あのー、十年間は人々のために頑張ってみたいと。それはもちろん菩薩の段階としてあっていいと思う。でも本当にその人が菩薩の覚悟を決めたならば、あのー、いや私は今生死んでも、仮にその、解脱のパスポートを得たとしても、ニルヴァーナには入りませんと。またこの苦界に生まれてきて、みんなの手伝いをしますと、ね。あるいは、まぁバクティヨーガ的に言ったら、あのー、まぁ仏教的に言うと如来方、あるいはヨーガ的に言うと神の御心に任せますと。ね。バクティヨーガ的に言うと、私はもう神の道具だと、仏陀の道具として使ってくれと。衆生の幸福のためにのみ私は存在したいと。それは、限定なしだと、ね。このような、その、なんっていうかな、遥かなというか、スケールの大きな誓いを菩薩は立てるわけだね。その素晴らしさをここでは説いているわけですね。

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