(10)「存在の認識」①
第十章 存在の認識
このようにして、生起のプロセスと完成のプロセスの結合を経験した人は、
自己と他者の二元性、そして幻影であるすべての存在から解放されていきます。
顕現と虚像、輪廻とニルヴァーナのすべては、
それ自身正しい何かになることは絶対になく、
それらの実体性を見つけることは不可能です。
よってあなたは、架空の存在の世界に自分は漂っているのだという、
本質的な意識の目覚めを起こさなければなりません。
輪廻とニルヴァーナには、幸福や不幸の様々な多様なあらわれがありますが、
それらはすべて幻影、夢のようなものであると気づいてください。
そこに外的な対象として明確に現われているものはすべて、
心の中の内的なあらわれなのです。
凝り固まった習慣的思考の力によって、
主体と客体の二元性がそこにあるように見えるけれども、
この実像の中に、二元性のようなものは存在しないのです。
それはあたかも、鏡に映った顔の映像のようなものです。
鏡の中に顔が現われますが、
実際は顔は鏡の中にはありません。
主体と客体の二元性は、そのように、
実在するようで、実際は実在していないことを知るべきです。
それらが注意深く吟味されない限り、それらは苦楽の源になります。
しかしもしそれらが注意深く吟味されたならば、それらは完全にとらえどころがなくなるでしょう。
そしてそれらがなおさら注意深く吟味されたなら、
言葉でそれを表現するあらゆる企てを超えて、
完全に、その実体を悟ります。
そこには存在も非存在も観察されません。
そこには無限のものも存在しなければ、有限のものも存在しないのです。
――それらは泉の中の月の反射、
蜃気楼の水のようです。
特に、六種類の汚れた存在である衆生というこの顕現は、
凝り固まった習慣的思考により、
そのような偽りの姿、真実に存在してしていない存在に結び付けられてしまったのです。
眼の病気で苦しんでいる人が、髪の毛の幻影を見るように、
粘液の病で苦しんでいる人が、粘液を取り除く治療を受けなければいけないように、
そのように、この偽りの顕現が清らかになるように願う人は、
完全なる叡智の欠如という目のかすみを取り除かなければいけません。
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