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お盆について

お盆について少し考えてみましょう。

 もともとインドの仏教においては、お盆という慣わしも、先祖供養とか墓参りもない。 
 お盆の根拠となっているのは盂蘭盆経という経典なんだけど、これは中国語のお経があるだけで、サンスクリット原典やチベット語訳はないので、中国で作られたお経かもしれないね。

 もともと中国は儒教的要素の強い国だけど、仏教と儒教の思想は似ているようで全く相容れないところもあり、そこで仏教を中国の民衆に受け入れさせるためにいろいろな偽の経典が作られた。中国産の偽経として有名なのは父母恩重経というのがあるね。父母への恩を説くという、いかにも儒教的な経典だけど、ここでも盂蘭盆について言及されている。

 さて、盂蘭盆経に説かれる、お盆の元となった逸話はこうだ。
 お釈迦様の二大弟子の一人であるモッガラーナの母親が、死後、餓鬼界に落ちて苦しんでいた。それを知ったモッガラーナは、お釈迦様に相談したところ、出家修行者の仲間たちに、多くの食物の供養をしなさい、ということで、モッガラーナは多くの食物の供養を修行者たちに行ない、それによって母親を救ったという話ですね。

 さて、この話自体は、私は論理的に一部は納得できると思います。因果の法則から言うならば、少なくともモッガラーナの肉体を製造してくれたのは父母である。そして子供のころから食事その他で養ってくれたのも父母である。よって、そのようにして保たれてきたこの肉体を使って、モッガラーナが善行を行なったなら、その功徳の何分の一かは、親にも返るということだね。つまり親が肉体を生み、育ててくれなかったら、モッガラーナはその善行を行なうことができなかったんだから。

 しかしよく考えたら、ということは、親や先祖への最大の恩返しは、自分自身が、この肉体を用いて、善を行なうことだといえる。いや、もっといえば、自分がしっかりと修行し、悟り、解脱し、聖なる存在となったならば、その膨大な徳の何分の一かの果報は親にも返るわけだから、それは最大の親孝行だといえるだろうね。

 だからね、日々悪を行ない、怠惰に生き、お盆のときだけお墓参りしたって、何の意味もないんだ。

 仏教にも、その背景にあるインド思想にも、根本に輪廻転生の思想がある。だから、中国や日本で言うような、お盆のときに先祖の霊が帰ってくるとかね、そんなのはおかしいんだ。ありえないんだよ。
 だって、我々は遥かな過去から無数の輪廻転生を繰り返してきた、という前提が正しいとするならば、我々もまた、別の生での誰かの死んだ親であり、誰かの先祖だということになるからだ。だとしたら、お盆のときに、我々も出動しなきゃいけないよ(笑)、いろんな過去世の子孫のもとに。そんなことはありえないよね。
 そういう思想をね、誰かが勝手に持つことは勝手だけど、少なくともそれは仏教ではないということだね。

 最近、精神世界の人が、あなたには先祖霊が守護してくれてるとか言ったりするけど、もちろんそれもありえないね。少なくとも仏教やヨーガの理論ではね。だからそういうことを勝手に言うのは勝手なんだけど、仏教やヨーガの名のもとには言わないでほしいと思うね。

 亡くなった人に立派な墓を作るとか、戒名を買うとか、位牌を飾るとか、仏壇とか、全部意味ないよ。仏壇というのも本来はブッダを奉る祭壇であって、死者を拝むものではない。
 でもそういう、先祖供養システムがないと、日本のお寺やその周辺の業者さんたちは食べていけないからね。でもまあ、その程度のことだ。

 また、我々が無数の輪廻転生を繰り返してきたとしたならば、そして親子やその他の縁というのはその生限りの条件に過ぎず、それぞれの生でそれぞれ別の縁があるとするならば、我々は過去世において、無数の父母を持っているということなんだ。逆に言えば、この宇宙のすべての生命体は、私の父母であった可能性があるということだ。だから今生の親や先祖だけじゃなくて、すべての人々、すべての魂を父母と見て、恩返ししなさいと、愛を発しなさいというのが、大乗仏教の理論なんだね。

 だからまとめると、お盆や墓参りに行く暇があったら、日々、善を行なおう。悪をやめよう。修行し、聖者になろう。そして周りのすべての人々に平等に愛を発そう。それが唯一の現実的な、親や先祖への恩の返し方だと思いますね。 

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