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解説「王のための四十のドーハー」第七回(2)

 そして、「リアリティをつかまえること、それは至福の経験への道」と最後に書いてありますね。これはですね、つまり、まず一行目と二行目で、まず外側の儀式、あるいは外側の供養といったものだけでは、本質的な悟りには到達しないんですよと。それはあくまでも準備であって、そこで満足してはいけないっていうのが説いてある。で、二行目によって、じゃあ、どうすればいいのか。それは内側の、さっきから言ってる、内側の炎を燃やし、そこに煩悩を捧げ物として煩悩を焼き尽くすことによって、甘露、不死の甘露と呼ばれる、アムリタと呼ばれるものを、滴らせなきゃいけませんって言ってます。で、そして最後の四行目ですが、「リアリティをつかむこと、それは至福の経験への道」と書いてある。これは、この次の詩とも関係あるんですけども、この次の問題としてね、はい、じゃあ、甘露が発生しました。非常に気持ちの良いエクスタシーがガーッて生じました。それだけでいいのかっていう問題があるわけですね。はい、ああ、気持ちいいな――それだけでいいのか。そうではない。そうではなくて、もう一つ、われわれにはしなきゃいけないことがある。それがここにある、リアルティをつかまえること。もうちょっと言うと、心の本性、あるいは、まあ空というわけですけども、空性というものをしっかりとつかまえることだと。
 ここには、仏教とかを学んでた人もね、ここにもあるいは札幌にも多いと思うんで、ちょっと一つ言っておくと、空っていう言葉あるよね。この空っていう言葉っていうのは、実際は何段階か意味があります。何段階か。もちろんそれはそれぞれの流派とかによって、ある意味のね、空は認めなかったりする人もいますけども、一応は、今回のこのサラハの系統にしたがって言うと、何段階か意味があります。で、その中で、最も一般的で有名なというかな、中心的な意味っていうのは、ナーガールジュナ、龍樹が説いた、まあ中観派といわれる派の空のとらえ方ですね。で、これはつまり、もともとね、大乗仏教っていうのがインドで起こり始めたときに、大乗仏教の一番最初に出てきた経典っていうのは『般若経』の、まあ一連の経典です。一連の経典っていうのは、たくさんあるんですね、般若経といわれるものがね。その中で一番短いのが、みんなもよく知ってる『般若心経』ですけども。般若経といわれるのがたくさんある。で、この般若経っていうのは、般若心経もそうだけど、「一切は空である」と。「空である、空である」ってたくさん説いてるんですね。でも、それを読むだけではなんかよく分からない。なんなんだ、空というのはと。で、それに対して一番最初に論理的な解釈を与えたのがナーガールジュナなんですね。ナーガールジュナが空というものを、いろんな方向から解き明かした。で、それが今の一般的な空の解釈の土台になっています。
 空というのは何もないということではなくて、例えばすべては依存し合ってるとか、一切独立自存のものはないとか、まあ、いろいろ説かれるわけですけども、この世のリアリティ、つまり本質を、さまざまな角度からつかまえようとしてる。でもそれは別に、何か「空」っていう実体があって、それのことを言ってるわけではなくて、この世がそのように、すべてはただ依存し合ってるだけなんですよ、どこにも独立自存のものはないんですよっていうようなことを表現しようとしてるのが空だ、っていうのが、まあ一般的な大乗仏教的な見解なんだね。
 でも、もう一つ深い見解がある。これが密教の、特にマハームドラーとかゾクチェンとかの見解で、こっちの方になってくると、ちょっと誤解を恐れずに言えば、空というのはそのような消極的な、つまり独立自存のものはないとか、あるいは依存し合ってるとかそのような意味ではなくて、もう一歩深い意味として、完全な本質的な境地があるんだと。つまり空というのは経験できるものなんだと。あるいは空っていうものはわれわれが到達しなきゃいけない、なんていうかな、宇宙の真髄というかな――として確実に存在するっていう説き方をするんですね。この宇宙のリアリティとしての空、それは単に、何度も言うけども、一切は依存し合ってるとかそういう意味での空ではなくて、本質的なこの世の、まあ真髄っていうかな、それを、われわれはこのマハームドラー系の修行によって、つかまえなきゃいけない。
 で、つかまえつつ、甘露の至福に浸るんだね。で、これをまあ、よく密教の言葉では、楽空無差別っていうわけですけどね。楽空無差別っていうのは――楽っていうのはつまり甘露によって生じる至福と、それから空の悟り、これが完全に混ざり合ったっていうかな、一体化した境地を悟らなきゃいけないんですね。で、そこで生じる至福こそが、真の経験であると。あるいはそれこそが真の悟りへの道であるっていうことを言ってるわけだね。なかなか大変なことだね、これはね(笑)。
 だから、まずわれわれがもちろん目指さなきゃいけないのは――もちろんね、ちょっとここら辺をまとめますよ――われわれはもちろん、例えば日々のこういった供物とかもそうだけど、儀式的なものはそれはそれでしっかりやらなきゃいけない。それはね、われわれと、神々や高い世界との絆をつくる上でもね。で、それはベースとして、さらに一歩進んで、まずこの体の中の、身体の炎を燃やさなきゃいけない。で、それには、何度も言うけども、まず徳が必要です。功徳っていうものがないと、この炎は燃えません。で、それプラスさまざまな、皆さんがやってるような修行に励むことによって、このクンダリニーとかトゥモといわれる炎は体を燃え上がるわけですね。で、その燃え上がった炎が、われわれの煩悩や、あるいはカルマを焼き尽くします。
 しかし――これはまあ、皆さんいつもよく聞いてるような話だけども、焼き尽くすっていったって、はい、バーッと炎が燃えて、「あ、煩悩なくなった」ってそういう問題じゃないよね(笑)。つまり焼き尽くす過程においては、われわれは苦しみを味わわなきゃいけない。それがいつも言ってる、浄化っていうやつです。ね。だからこの浄化は起きる。例えば簡単に言うと、蓮華座を組む。蓮華座を組んでビシッと腰を入れてしっかり座ってると、当然足が痛くなってくる。これはまさに、足のナーディーを詰まらせてる低い世界のカルマ――だいたい、そうですね、足のナーディーっていうのは地獄のカルマか、もしくは動物界のカルマ。例えば怒りとか嫌悪とかそういったものか、もしくは性欲とか依存心とかね、愛情欲求とか、そういった動物系のカルマ、もしくはもちろんどっちもっていう場合もあるけどね、そういうもので詰まりますよと。で、それを、炎によって焼き尽くすわけですね。
 あるいはそういった肉体的なことだけではなくて、その人が持ってるカルマが焼かれるときっていうのは、例えば簡単な例で言うと、小さいころからね、悪口ばっかり言ってた人っていうのは、そのカルマが焼かれるとき、バーッていきなりみんなから悪口を言われるようになる。で、それによって浄化するわけだね。そういうことがわれわれの人生にいろいろ起きるようになる。カルマの浄化のプロセスが始まるわけだね。
 もちろん、そのような苦しみをできるだけ少なくしてこれを通過したいと思ったら、普段から、自分の中から、煩悩をなくしていくしかない。だからしっかり戒律を守り、あるいは心の中のけがれをできるだけ少なくして、あるいは日々懺悔をしてね、あるいはもちろん、高い世界に対して帰依であるとか、供養であるとか、祈りとかを捧げて、高い世界へのパイプをしっかりつくっておいて。こういうその精神的なっていうか、基礎的な修行をしっかりしてると、その浄化っていうのは、まあ、なんていうかな、柔らかくて済みます。しかし逆に、日常のそういった精神的な修行とか基礎的なものをおろそかにして、ただ行法だけやる場合、その苦しみっていうのはまあ、かなり苦しいものになりますね。ですからもちろん、日々の教えによってね、自分をちゃんと整えていくと。そういうこともちゃんとやらなきゃいけない。

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