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解説「王のための四十のドーハー」第七回(1)

2009年10月7日

解説「王のための四十のドーハー」第七回

 はい。今日はサラハの詩。今日は札幌の、初めてのね、中継ではありますが、いきなり難しい内容ですね、かなりね。
 はい。今日は札幌、初めてなので、サラハについての基本的な話っていうのはここで何回もしてるんですが(笑)、もう一度さらっとね、前提の話をね、ほんとに非常に簡単にしますが――このサラハという方は、いわゆる密教ね。密教の流れっていうのは、そうですね、インドで、七、八世紀ごろから始まったといわれています。正確には、仏教の密教と、それからヒンドゥー教の、つまりヨーガ的な密教とが、まあ非常に影響を与え合うような感じで、その時代に発達していったといわれています。
 で、その時代に現われた偉大な聖者が何人かいるわけですが、このサラハという方は、特に、マハームドラーと呼ばれる修行の系統のね、開祖の一人ともいわれてる人です。つまりマハームドラーっていうのは密教の奥義の一つなわけですけどもその、まあ、その大もとの一人といわれている。つまり、また言い方を換えるならば、密教の開祖的な大聖者の一人でもあるといわれています。
 で、まあ非常に簡単に話しますが、このサラハはもともとはヒンドゥー系の、非常に良家のっていうかな、血筋のいいお坊さんだったわけですけども、そこから仏教に転向し、そして、さらにその正統的な仏教の流れから、道端で弓を作ってる女性の弟子になるんですね。で、この道端で弓を作ってる女性っていうのは、傍から見るとただの職人なんですけども、実際は、仏陀の化身であるダーキニーであったといわれています。で、それをサラハは見抜いて、弟子入りするわけですね。そしてこの職人の姿をしたダーキニーと、一緒に火葬場――火葬場っていうのは密教においては聖地といわれるわけですけども――火葬場で暮らしながら修行し、偉大な悟りを得たといわれています。
 はい。で、その偉大な悟りを得たサラハが火葬場で身分の低い女性と暮らしてるという噂を聞いて、サラハのことをものすごくかわいがっていた王様がいたわけですけども、「あのサラハは、かつては、血筋のいいヒンドゥー教のね、いわゆるブラーフマナとして偉大な男だったのに、今はいったい何をやってるんだ」と。インドっていうのはものすごく、身分とか、あと浄・不浄とかを気にするので、身分の低い女性とあのサラハが火葬場のようなけがれたところで、一緒になんかやってるらしいと。いったい何をやってるんだ、ということで、部下に、何をしてるのかを見に行かせるわけですね。で、そのやってきた王様の部下たちに対してサラハが、百六十の歌を歌ったといわれています。で、その百六十の歌によって、この王様の部下たちは皆悟りを得てしまうんですね。で、悟りを得てしまって、そこから帰って来なくなった。
 で、そこでその王様は今度は、自分の娘である、まあ王女様を、サラハのもとに向かわせるわけですね。っていうのはサラハのことをものすごくその王様は気に入っていたので、自分の娘をあげようと思っていたんですね。で、その娘を向かわせるわけですが、今度はサラハは、その王女様に対して八十の歌を歌い、それによって王女は悟ったといわれています。
 で、王女も悟ってそこにとどまり帰って来なくなったので、最後に王様が自らサラハのもとに向かうわけですね。で、ここでサラハがこの王様に対して説いた歌が、今日ね、勉強する、四十のサラハの詩といわれています。
 つまり皆さん、分かる人は分かったと思いますが、つまり最初、部下に百六十の歌を説いた。次に王女様に八十の歌を説いたっていうのはつまり、王女様の徳や智慧が、最初の部下たちよりも二倍優れていたわけですね。つまり、半分の八十の歌でよかったっていうことです。で、さらにその最後に来た王様は、その王女よりもさらに智慧が優れていたので、その半分の四十でよかったと。
 つまり、それだけこのサラハの四十の歌っていうのは、なんていうかな、非常に智慧がある者に向けて説かれた、ある意味で基本は分かってる者に対する歌であるし、同時に、その少ない言葉で、その真髄を読み取れる智慧ある者に対する歌なので、なかなか実際は理解が大変なんですね。
 はい、で、さらに今日はですね――最初の方はまあ、まだその中でも基本的なところから始まるんですが、かなり中盤まで進んだので、まあ、かなり難しい領域に入っています。で、こういった教えっていうのは、なんていうかな、理解するのも難しいし、それから説明するのも難しいことでもあるので、まあ、ぜひ皆さんね、気をしっかりと上昇させ――いつも言うけどもね、こういった教えっていうのは、これを理解するには、頭の良さはあんまり関係ない。気が上がってるかどうか、あるいは意識が高い世界にアクセスしてるかどうか。そっちの方が大事なんですね。だからしっかり気を上げて、意識を高い世界に向けて――だから決してね、勉強会中にくだらないことを考えないと(笑)。ね。欲望のこととか考えずに意識を高い状態に向けて、しっかりとね、学ぶようにしてください。
 はい、で、今日はですね、「燃え上がる炎に、ギーと米で」っていうところからですね。はい、これはもう中盤に差し掛かってるわけですけども、この辺のいくつかの詩っていうのはどういう詩かっていうと、高度な批判、で、高度な注意点です。どういうことかっていうと、われわれが陥る過ちに対する注意点なんですが――この辺のいくつかの詩はね。でもその陥る過ちっていうのが、いわゆる高度な過ちなんだね。基本的なものっていうよりは高度な、われわれが修行を進めていったときにぶつかる、さまざまな過ちに対する、まあ批判であり注意点だと思ってください。

【本文】

燃え上がる炎に、ギーと米で
ささげ物を作るブラーフミンのように
ハム字から不死の甘露を滴らせるならば、経験が生じる
リアリティをつかまえること、それは至福の経験への道

 はい。じゃあ、さっきも言ったように、この辺の話っていうのは、しっかりと気を上げ、心を高い世界に集中させて読んでくださいね。わたしも、だからそういう意味では、あんまり学者的な、論理的な説明ではないかもしれませんけども、できるだけね、皆さんに、心にそれが伝わるようにね、説明したいと思います。
 はい、まず、

燃え上がる炎に、ギーと米で
ささげ物を作るブラーフミンのように

 これは、まず伝統的に、ヒンドゥー教において、特にブラーフミン、まあブラーフマナとかもいいますけども、いわゆる最高のお坊さん階級の人たちの仕事っていうのは、祭祀なわけですね。祭祀っていうのはつまり、例えばここに書いてあるのでいうと、火を燃やしてね、それは聖なる火であると。で、その聖なる火に、お米や、あるいはギーや、いろんな供物を捧げて、まあ、お祈りをすると。で、お祈りをすることによって、神とつながり、それによって、いろんなね、願い事を叶えてもらったり、あるいはもちろん高い段階においては、それによって自分の悟りであるとか、高い境地への達成を祈ったりとかをするわけですね。
 で、こういった修行っていうのは仏教にももちろんあって、仏教っていうのは――仏教の中でも密教ね――密教っていうのは、のちの整理された分類によると、四段階に分かれるといわれています。その四段階のうち、まず一番目が、儀式ヨーガ、クリヤーヨーガといわれる段階があるんですね。で、このクリヤーヨーガっていうのはまさに名前どおり、儀式。今言ったような、さまざまな神への祭祀とか、そういった儀式を中心にした密教なんですね。で、二番目にチャリヤーヨーガ、つまり行ヨーガ。さまざまな瞑想や行法を中心にした密教っていうことです。で、その上にヨーガタントラ、そしてアヌッタラ・ヨーガタントラとくるわけですが、このように段階が上がっていくわけですけども、密教の第一段階、スタートの儀式ヨーガといわれるものが、ヒンドゥー教でもね、伝統的にやってるような、まざまな儀式――火に供物を捧げたり、さまざまな祭祀を行なうことで目的を達成しましょうというのが、伝統としてあるわけですね。はい。それをまず言ってるわけですけども。
 で、そのように、「ハム字から不死の甘露を滴らせるならば、経験が生じる」と書いてある。つまりここで言わんとしてることは何かというと、もちろんこのような儀式的な修行っていうのは、基礎としては大事なんですが、端的に言えば、火に米やギーを捧げたり、あるいは火に供物を捧げるだけでは、本当の意味で神とつながったり、高い世界にアクセスすることはできませんよ。じゃあ、どうすればいいのか。われわれの内なるエネルギー、ヨーガ的にいうとクンダリニーですが、チベット的にいうとトゥモ。われわれの内側の炎を燃やし、そこに――まずね、この炎を燃やす段階で、われわれには当然、徳というのが必要です。徳のエネルギー、われわれの功徳というものをしっかりと集め、それを炎として燃やし、そして、われわれの精神的な障害、つまり煩悩、あるいは悪しきカルマ、それを捧げ物として捧げなきゃいけないんだね。つまりこれは、単純な外側のそのような供養だけでは限界がありますよと。
 あのね、実際は、これは一つの見方です。一つの見方っていうのは、例えばバクティヨーガ。このバクティヨーガっていうのは、この儀式的なヨーガを、逆に、その方向から極度に純粋化させた修行です。だから例えばラーマクリシュナがそうであるように、ラーマクリシュナとか、あのような、あれほどの純粋な熱意を持った魂ならば、例えば神への祈りや、あるいは神への、なんていうかな、儀式というか、供養とか、そういうものだけでも、完全な境地には至れる。でも普通は無理なんだね。普通は無理っていうのは、当然、そこに百パーセント心を没入できない。そこに百パーセント、魂をね、入れて、例えばまさにラーマクリシュナのようにね、その対象である神や仏陀が、目の前にありありと見えるぐらいの、強い渇愛ね、聖なるものに対する渇望の気持ちを持ってやらなきゃいけないわけだけども、そこまでできる人はいない。単純に儀式――ほんとに表面的に儀式的に手順を踏んでっていう感じで、まあ、やることで満足してる人が多いわけですね。ですから、そんなんじゃ駄目ですよと。もちろんそれは基礎としては必要なんですけども、ほんとに必要なのは、そのような外側の炎ではなくて、内側の炎を燃やさなきゃいけない。
 で、もう一回言うけども、まずこの炎を燃やすには、われわれには、まず徳が必要です。徳があって、その徳をもとにしっかりと修行に励むことで、われわれの身体の炎を燃やす。で、その炎を燃やして、捧げ物というのは、われわれの煩悩やけがれであると。その煩悩やけがれを、その炎によって焼き尽くすわけですね。そしてそれがある程度成功して、その炎がわれわれの頭のてっぺんまでしっかりと届くと、「ハム字から不死の甘露を滴らせるならば、経験が生じる」と書いてあるね。つまり、これはまあハム字、密教の修行でね、この頭のてっぺんにハム字っていうのを観想するわけですけども、そこにね、炎が到達することによって、実際に、不死の甘露、アムリタといわれる、非常に気持ちの良いエネルギーが発生するわけですね。はい。それによって経験が生じると。

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