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解説「菩薩の生き方」第九回(2)

【本文】

 そして世の中で、他からの恩に報いる人や、人々に食事をもてなす人などはすばらしいですが、菩薩はそれらとも比べ物にならないといいます。
 それは菩薩が幸せを与えるのは、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えないのだというのです。つまり、五〇〇人だけ救おうかとか、一億人だけ救おうかとか、そういう人数限定ではなく、すべての衆生を救おうとしているわけです。そして期間的にも、一〇年だけとか、一〇〇年だけとか、一〇〇億年だけとかではなく、すべての魂が完全な安楽(解脱)を得、それによって輪廻が完全に破壊されるまで、衆生の手助けをし続けよう、というのが菩薩の願いと行為なのです。

 はい。これは分かりますね。まあ一般的に、そうだな、ある程度心が豊かである程度利他心のある人は、例えば人に食事をもてなしたいとか、あるいはいろんなかたちで、まあ例えば慈善活動をしたりとか、いろんなかたちで人に幸福を与えたいと思う。はい。で、そういった人たちはだいたい、当然いい人と言われるし、あるいは称賛されたりするかもしれない。しかし仮にここに人がいて、自分の財産を使って多くの人に食事を与えたとしても、あるいは一時的に慈善活動を行なったとしても、それは期間的にも一時的であり、そして内容的にも、まあ、ここの言い方をすると、「ただ半日の命を支えたためである」と。つまり、誰かの命を支えたっていうことによって例えば称賛されると。しかしそれは半日であると。
 半日であるっていうのは――これはさ、もちろん例えば日々世界で行なわれてるいろんな慈善活動、これはもちろん素晴らしいことだと思う。素晴らしいことだし、カルマ的にそこに没入するカルマのある人は、まあそれを一生自分で頑張っても、それはそれで素晴らしいと思うね。しかしここで言ってるのは、もうちょっと深いことを言ってるんですね。深いことを言ってるっていうのは、例えば飢えてる人がいて、その人に食事を与えたとしてね。自分の食事を与えましたと。これは素晴らしいですよね。うん。でもそれが例えば道で会った人だとしたら、その人はまあ二、三日はそれで生き延びる。でもまた飢えて死ぬかもしれないよね。つまり、もしその人の命を救うっていうことが善だとするならば、その人とほんとに関わって救おうとしたら、一生面倒を見なきゃいけない。もしほんとに身寄りのない乞食とかだったらね。で、さらにそれを世界に目を向けると、世界中のそういう貧しい人たちを、もし命を救うっていう意味で救済するとしたら、それは不可能に近い。
 それから次に、もう一つ深く考えると、ここで「ただ半日の命を支えたためである」って書いてあるけど、命支えりゃいいのかっていう問題がある。この辺はだから存在論、あるいは、ちょっと哲学的になってくるわけだけど、結局「救う」とはなんなのか。現代っていうのはさ、なんか、こないだもちょっといろいろ話してたんだけど、第二次世界大戦後、日本とかはまあしばらく平和な時代が続いてるけども、昔の物語っていうか世界史、あるいは日本史、あるいはそれらを題材にしたいろんな物語とか見るとね――わたしも、前から言ってるように、昔、『宮本武蔵』とかもそうだけど、『三国志』とかも好きだったんだけど、ああいうの見てるとバンバン人殺すんだね(笑)。普通に殺すっていうか。「ああ、あいつのためにはちょっと三つぐらい首持っていかなきゃいけない」とか言って、「じゃあ部下を三人殺すか」みたいな感じで殺したりとか(笑)。日本でもそうだしね、もちろんヨーロッパとかもそうだけど、今とはちょっと感覚が違ったりする。で、現代では、平和な時代が続いてるっていうのもあるんだけど、なんていうかな、命の尊さみたいなのをすごく謳うわけだね。生きてこそ、みたいな。あるいは生きることが一番大事だ、みたいな。そういうので覆われている。でもはたしてそうなのかな?っていう疑問がある。そうなのかなっていうのは、そうじゃないって言ってるんじゃないよ。命が一番大事だっていうそのテーゼが正しいのか。つまり何を言いたいかっていうと、多くの人はそうやって与えられた情報を鵜呑みにし、例えば逆に第二次世界大戦中とかは、日本人とかは――まあ日本だけじゃなくてもともと世界的にそうだけども、お国のために死んでいくこと、あるいは天皇のために死んでいくことが生まれてきた証であるみたいな、あるいはそれこそが価値のある生き方、死に方であるっていう一つの価値観を植え付けられていた。で、それをほんとに信じてた人たちはもちろんその思いで死んでいったわけだね。で、今言ってるのは、何が正しいとか言ってるじゃなくて、人っていうのは、そうやって与えられた情報によって、あまり考えることなく、なんとなく今世界で普通に常識とされてる考え方で、まあ物事を見てしまう。
 で、この生っていうものに対する考え方もそうなんだね。つまり、なんとなく生きること、あるいは命を長らえさせること、これはとてもいいことであるといわれている。もちろん仏教でもヨーガでも不殺生、生き物の命を救うことは善であるとされてるから、それはそれでいいんですけども、しかしそこに本質はあるんだろうか。例えば誰かの命を救い、その人は長く生きたけども、長く生きたおかげでいっぱい悪業積んだと(笑)。で、それで死んで地獄に落ちたとしたら、これはなんだったってなるよね(笑)。
 もちろん、生きることは素晴らしい。なぜかというと、生きることによって善を積める、修行ができる。あるいは人のために尽くせる。しかしそのような条件がないとしたら、生きること自体はまさに諸刃の剣。生きることによって落下する場合もあるし、生きることによって天へ行く場合もあると。よって、生きるっていうことはベースなわけだけども、その上に、いかにその人を上向の道に向かわせるか。で、それはさっき言ったように、皆さんの修行によって、そのエネルギーやカルマによって向かわせてもいいし、あるいは実際に教えを説くとか現実的に修行させるとかでもいいけども、それを、人を救うっていうことの主眼に置かなきゃいけないんだね。
 もう一回言うけども、命を救うことはベースとしては素晴らしい。しかしそれだけではなんの意味もない。その救った命に何をさせるか。
 前にも言ったけどわたしも、昔一人でインドを旅したときに、よくそういう思いに陥ったことがあったんですね。乞食がいっぱいいてね。しかも非常に哀れなっていうか、よく言われるように、哀れみを乞うために親から腕とか足とかを切られた子供の乞食とかね。あるいは自分で目をつぶした人とかね、そういう乞食たちがよくいるんですね、普通にね。その方がお金いっぱいもらえる、みたいな感じで。あるいは、親にいいように使われてる子供の乞食ね。例えば、ほんとに子供が、かわいそうなっていうか、哀れみを乞うような感じで来て、で、お金をあげたりするとバーッて裏から親がでてきて(笑)、バッて奪っていくとかね。うん。まあ、いろんなシーンをインドにいると見るわけだけど。で、そういった人たちにお金をあげたりね、食べ物をあげたりしてて、一体何が彼らにとって救済になるんだろうかと、よく考えたんだね。さっき言ったように、お金あげても親に取られる。あるいは――まあそれは親がそれで生計を立てるのはそれはそれでいいんだけど、例えばまた別のパターンで、ある乞食の子供たちがいて、で、最初はね、無邪気に遊んでたんです。わたしも一緒に遊ぶっていうか無邪気にやり取りしてて。ああ、なんていうか、身分は低いけども、あるいはちょっと物質的には恵まれてないけどもかわいい子たちだな、みたいな感じで遊んでたんだね。で、そのときにわたしが持ってたポテトチップスを、その遊んでた中のある一人が、「それちょうだい」みたいに言ってきて、「じゃああげるよ」って言ってあげたんだね。もちろんわたしは、そこに数人いたわけだから、当然みんなで分けるためにあげたわけだけど。そしたらその子はバッて奪って走り出して。で、みんなも追いかけだしてその子をつかまえて、もうすごい、なんていうか奪い合いになってるんだね。で、その最初に言った子は、「僕が言ったから僕がもらったんだ」みたいな、まあインドの言葉分かんないけど(笑)、そういうニュアンスで、おれがもらったんだからみたいな感じで。で、わたしはもちろんみんなにあげたつもりだったんだけど、そういうのが繰り広げられた。もちろんそれは浅ましいって言ってしまえばそうだけど、でもそれは当然彼らが置かれてる環境からいったらね、われわれとは全然違う、今日の食事も食べられるかどうか分からない、あるいはポテトチップスみたいなおいしいものなんてほんとになかなか食べられないような、そういう状況の子たちなわけだから。で、そういうのを見ると、ああ、一体どうすればいいんだろうかと。
 で、さっき言ったみたいに、わたしが大金持ちになってそういった人たちに援助してもキリがないだろうと(笑)。ね。キリがないし、それはあんまり意味ないなと。つまり、救うっていう意味は、つまりカルマによっていろんなそういう環境に置かれていてたとしてもね、その環境自体を神の愛と考え、自分の修行と考え、明るくすべてを受け入れて進んでいけるように彼らを教育できたとしたら、これは素晴らしい。それをできるかっていう問題がある。
 まず一番最初に現実的に考えると、言葉が通じないと(笑)。そもそも言葉が通じない。リアルに考えれば考えるほど、非常になんていうか矛盾と、それから障壁があるわけだね。実際に目にしてきたいろんな人たちを本質的に救うとしたら、グーッと考えれば考えるほど、彼らを解脱させるしかない。彼らを解脱させるしかないが、言葉も通じないし、あるいは今目の前のいろんな問題でもういっぱいいっぱいになってる人たちを修行の道に入れることは大変困難だと。だって日本人みたいに余裕がある人たちですら修行しないわけだから。そうじゃなくて今目の前の食べ物とかいろんな問題でぐじゃぐじゃになってる人たちが修行するわけがない。
 そういういろんな、なんていうか、救いたいっていう思いと、現実的にどうすりゃいいんだみたいなのがいろいろあって。で、それをグーッと思いを強めていった最終的な結論として、「おれが仏陀になるしかない」と(笑)。わたしがまず、じゃあみんなの分まで全力で修行して、つまりヴィヴェーカーナンダも言ってたように、触るだけで、あるいは見るだけで相手を解脱の道に入れてしまえるような存在に自分がなるしかないと。うん。ああだこうだ考えてるよりも、まず自分が完全な聖者になればいいと。うん。そのときはそう思ったんだね。
 だから、ちょっと話を戻すけども、菩薩の意志っていうのはそういうところにあるんですね。もちろん何度も言うけど、今日の食事を与える、あるいは今日のいろんな病気から救う――これはもちろんいいことです。だからそういったパートっていうかな、そういったパートを担う菩薩っていうか、それはそれでいていいと思うんだけど、そうじゃなくて菩薩の本懐っていうのは、そのような健康や、あるいは人生の、まあ生というのが土台にあって、その中でいかに彼らを目覚めさせるか。さっきの言い方で言うと、彼らが錯覚してる錯覚を取り除き、本当の幸福に向かわせるか。あるいは本当の意味で苦悩から解放させるか。あるいはその大もとである無智、迷妄からいかに解放させるか。ここに、まあ菩薩の意志っていうかな、志はあるんだっていうことですね。

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