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解説「王のための四十のドーハー」第五回(6)

◎自作自演の世界

 はい。で、さっき、これは外的な例えと内的な例えがありますよって言ったのは、外的なっていうのは今言った、この世界そのものが、この、ほんとにある、ここにあるじゃないですかっていうこの固いこの世界そのものが、われわれの心が固まった一つの現象なんですよっていうのが一つ。で、もう一つの内的な意味っていうのは、外的はどうかは別にして、われわれの心の固さの問題ね。われわれは今、もう一回言うけども、エネルギーレベルが下がって――で、ここで重要なのは、「概念に乱されて」ってあるね。「概念に乱されて」。つまりそのエネルギーレベルを下げてるのが、さまざまな概念、観念なんです。この概念や観念によって、われわれは――つまりね、アイデンティティーです。「わたしは」――これ、いつも言うけど、西洋の伝統ではこのアイデンティティーをちゃんと確立し、強めることを称賛する。もっとちゃんと「わたし」を持ちなさいと。でも東洋っていうかインドの伝統では、逆にこのアイデンティティーをいかになくすか、これに重点が置かれるんだね。つまり、「わたしは」っていうのはほんとはどこにもない。しかしその概念によって自分の「わたしはこれである」っていうのを保ち、で、それを一生懸命一生懸命保とうとする。これは誰でもあるでしょ。で、そこからずれることを非常に恐れる。例えばここからずれるとわたしが自分でなくなってしまうような感じがする。あるいは人からどう思われるんだろうかとか、そういう感じになってしまう。で、これをぶち壊していくんだね。しかし普通はそうじゃなくて、過去からいろんな経験をしてきた、その概念、経験の情報、これにしがみついて、われわれは自分の心を非常にガチガチにしてる。ガチガチにすることによって、「こうなったら苦だ」「こうなったら喜びだ」――これも何回か言ってるけど、ガチガチにすることのデメリットっていうのは、「こうなったら苦だ」「こうなったら喜びだ」っていうその条件が、完全にその固定化されている。だからその「こうなったら苦だ」っていう現象が起きたらそれはもう百パーセント苦になってしまうんだね。じゃあ喜びの現象にぶち当たったら、それは喜びじゃないですかと。確かに喜びです。でも、それが終わるときにやはり苦しいんだね。この世は無常だから。喜びを手にしたら今度はその終わりが来る。そのときにもやはり心はそれで苦しまなきゃいけない。
 だからいつも言うように、この、ほとんどの、われわれのほんとんどが持ってるこの心の傾向っていうのは、完全にマスターベーションなんです。つまり勝手な自作自演なんです。「わたしはこうで、これが喜びですよ」「これが苦悩ですよ」って勝手につくってるんだね。勝手につくってワーッとか喜んでる。だから何回か言ってるけど、子供の遊びみたいなもんです。わたしも小さいころそういう遊びよくやってたけども。何回かここで言ってるけど、例えば、小さいころわたしがよくやってた遊びで「毒海」っていう遊びがあって(笑)。毒海ってどういう遊びかっていうと、うちのおじいさんが、大きなビルの家具屋さんをやってたので、よくトラックとかね、いろんな荷物置き場とかがいっぱいあるところでよく遊んでたんだね。で、そのトラックとか荷物置き場とかの上に乗って――で、地上は全部毒の海だと。こういう設定なんだね。で、地上に落ちないようにしてトラックからトラックに飛び移ったりするんだけど、地上に落ちたらもう毒だから、「ああー! 毒に落ちた!」と。
 で、前にこの話をしたら「で、それ、どういうルールなんですか?」って聞かれたんだけど、ルールないんです(笑)。

(一同笑)

 つまり勝手にトラックの上を歩いたりして、地面に落ちたら「毒に落ちたー!」ってこれだけの遊び(笑)。でもこれがまさに自作自演ね。どこにも毒なんてない。勝手にルールを決め、こうなったらいいんだ、こうなったら悪いんだっていうのを決めてね、それで喜んだり楽しんだりしてる。
 ただこれは遊びだから、まだそんなに本格的に苦しんだりはしないんだけど、でもわれわれは本気で「こうなったらいい」「こうなったら悪い」って勝手に決めて一人で遊んでるんだね。
 例えばさ、今言った毒海遊びなんてね、大人から見たら「何やってんだ」って感じじゃないですか。例えばちっちゃいころのわたしがね、トラックから地上に落ちて、「ああ、毒に落ちたー!」とかやってると。で、大人から見たら、「ばかじゃないか、あいつ」と(笑)。「あいつは大丈夫か?」と。「将来大丈夫かな?」と(笑)。

(一同笑)

 そんな感じに見えると思うけども、われわれも同じなんです。つまり仏陀から見たら、われわれが勝手にね、例えば「ああ、あの人にばかにされた。もう苦しい」とかね、「ああ、恋人がいってしまった」と。「ああ、わたしは生きていけない」とかやってるのを仏陀が見たら「何やってるんだ、あいつは」と(笑)。

(一同笑)

 つまり自作自演でね、つまり、これ、表現するとですよ、ちょっとこれ皆さん理解できるか分かんないけども、例えばIさんがね、「彼氏にふられたー」とか、あるいは「誰々さんにばかにされた。もう助けてください。わたしは苦しくてしょうがない」って言ってるのを仏陀が見たら、「Iさん、何やってるんだろう?」と。「だってIさんは、昔から、今も、ずっと、悟りの歓喜の中にいるじゃないか」と。いるのに――つまり仏陀から見たら、いるんです、もう、今。悟りっていうのは得るもんじゃなくて、あるんです、もともとここに。そこにいるのに、勝手になんかイメージして、「おれは苦しい!」ってやってるだけなんだね。だからそれは、まさに「何やってんの?」っていう話になるんです。こういう感覚なんだね。これが、概念がわれわれの心を氷のように固めてるっていう一つの表現です。
 もともと、だからこの表現の裏には、今言った、われわれの心っていうのはそもそも純粋で、悟っていて、歓喜に満ちてるんだよっていう真理があるんだね。それを、概念と呼ばれる、あるいは観念ともいってもいいけども、それによってわれわれは世界を勝手につくり、定義し、言ってみるとね、抜け出せなくなってるんです、しかもそこからね。だから最初は遊びでやってた子供が、その概念の世界から抜け出せなくなっちゃった。こういう状態だね。これが今のわれわれです。これが内的な意味ですね。

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