yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第八回(3)

 

 はい。しかしまあ、ここの言葉にはトリックがあり、「菩薩以外にはこのような心は生じない」っていうのは、言い方を換えれば、そのような心が生じる者を菩薩と言ってるんだっていうことですね。だからそれは皆さんも当然自分の中でしっかりと考えたらいい。つまり皆さんが実際ね、こういう法に巡り合ってること自体が、皆さんは菩薩の素養を持ってるっていうことになります。で、皆さんはだからその意味で、なんていうかな、もともとは皆さんは菩薩なわけだけども、その菩薩としての自分の潜在的な機根と、それから今生作ってしまったさまざまなけがれや、あるいはエゴイズムが、まあ戦ってる状態だと思うんだね。本質的には皆さんの中にも、今言ったような偉大な菩薩の心が眠っていると。で、この菩薩の心っていうのは当然、何生も何生も受け継いでいくものです。つまり一生で終わっちゃったらそれは全然叶えられないからね。そんな一生で自分が仏陀になって、そして全魂を救うなんてことはあり得ないから。だから何生も引き継いで持っていくものなんだね。だから当然ここにいるみんなも、何度も言うけれども、すべては因果ですから。因果っていうのは、原因があり現在の果報があるわけだから、ここでこういう教えを聞き、そしてそれを曲がりなりにもある程度、「ああ、素晴らしいな」とか、「いいな」とか、菩薩というのは素晴らしいと思えるっていうことは、もともと皆さんの中には菩薩の種子がある。
 しかし、もう一回言いますが、今生のひどい時代、つまり――何度も言うけどね、皆さんはもしかすると過去世、あるいはもっと前の生でいろんな素晴らしい世界にいたかもしれないよ。素晴らしい世界っていうのは、例えばそれは地球かもしれないけども、昔のチベットみたいにみんなが菩提心や、あるいは修行の素晴らしさを分かっていて、で、そのようなその教えによって社会がまあ運営されてる社会とかね。あるいはそうじゃなくて、皆さんのある人たちはヒマーラヤの聖者たちのグループにいたかもしれない。聖なることしか考えないような聖者たちの集いの中の一員としていた人もいるかもしれない。あるいはもちろんこの人間界ではなくて、どこかの高い世界のそのような菩薩や修行者の集まりにいたかもしれない。うん。で、そういうときっていうのはもちろん、当然、社会がそうだから楽ですよね。皆さんが菩提心を持つこと、あるいは修行にまい進することは非常に楽であると。しかし今生はそうではない。今生はそれとは逆の情報を小さいころから入れられ、エゴを増大させるような、あるいは解脱ではなくてこの世俗に結び付けるような、あるいは「自分よりも他人」ではなくて、他人よりも自分のことを大事にさせるようなデータをいっぱい入れられてきたわけだね。で、それによって皆さん自身もそれを修習し、自分のカルマをけがしてきたと。だからそこから早く目覚めなきゃいけない。
 だから自分の中に菩提心の種子が少しでもあると思ったら、いつも言うように、それを謙遜するんじゃなくて、随喜してください。ああ、わたしは菩薩なんだと。ね。だって、もし菩薩じゃなかったら、こういう教えが少しも理解できるはずがないと。で、わたしはちょっと怖い気持ちもあるけども、やはりみんなのために修行したいと。みんなのために存在する自分でありたいっていう気持ちがあると。あ、これはわたしの中に眠っている菩提心があるんだと。だからこれを今生、もっともっと心を磨いて大きく大きくしていこうと。そして、来世も再来世もずっと、この発願が完成するまで、つまり実際に現実的にすべての衆生が救われるまで、わたしがこの菩提心を失わないように、それをしっかり神や仏陀に祈り、それをしっかりと自分の心の連続体に植えつけると。それをしっかりと考えたらいいですね。
 これは『入菩提行論』とかでも繰り返し説かれていますが、この菩提心っていうのはほんとにね、宝物です。宝物ね。これは絶対逃してはいけない。逃してはいけないっていうのは、つまり皆さんが例えば、今、さっきわたしが言ったことと逆の発想、つまり逆の甘い心でいったならば――甘い心っていうのは、「ああ菩提心か、なんか素晴らしい気もするけど、今生のわたしはなんかエゴだらけだし、まあいいか」とかね(笑)。「いやあ、修行はするけど、菩提心とかは厳しいなあ」とかやってたら、さっき言ったようにその人は実は何生も何生も菩提心を持ってきたかもしれないけども、今生そういうふうにちょっと甘い心でいたら、その菩提心が弱まる可能性があります。その内にある菩提心がね。例えばそれは、もしかするとね、一万回ぐらい生まれ変わって菩提心を修行してきたかもしれない。でも今生そういう甘い心によってちょっと弱まるかもしれません。そうすると、次の生も同じことが起きるかもしれない。次の生も例えばけがれを修習して、またちょっと弱気になって菩提心が弱まる。こうしてる間に当然その菩提心が自分から離れていくときもあるよ。つまりそれは、もう一回言うと、この輪廻における偉大な宝物である菩提心、これを自分は持ってたんだけども、でもその偉大さ、価値っていうものを理解しなかったがために、あまりそこに心を集中しなかった場合、これが今生か来世か分かんないけど、皆さんから離れていく場合もありますよ。これはもう大変な損失です。
 で、そうなったらね、本当にこれは恐ろしいことだと考えてください。恐ろしいことっていうのは、なんていうかな、もう出合えなくなるんだよ。出合えなくなるっていうのは、「ああ、菩提心素晴らしいな。でもちょっとな」っていうのを何回か繰り返してたら、ある生から今度は菩提心の「ぼ」の字もない人生になると。修行には出合えるかもしれないけど、「さあ」ってこう生まれ変わって、で、何歳かになったら偉大な師と巡り会い、修行を教えてもらうと。でもその師は非常に小乗的な、個人的な修行の師であると。で、自分もそれに倣って一生懸命個人的な修行はするんだけど、菩提心っていうのを全く聞くことがないと。で、なんとなく自分の心の奥では物足りなさを感じる。ああ、うちの師匠は素晴らしいし、わたしは素晴らしい真理に巡り合ったと。しかし何かがない気がすると。ね(笑)。なんか足りない気がすると。いやあ、言ってることはよく分かると。この輪廻っていうのはほんとに苦であって、で、われわれはその魂のふるさとであるニルヴァーナに帰らなきゃいけない。そのために自分の煩悩と戦って修行するんだと。そのために世を離れて、神聖な世界の中で一生懸命自分のカルマと戦い解脱しましょう、そして早くこの輪廻からおさばらしましょう――いや、言ってることは非常に論理的で分かりやすいと。それが真理だって分かってると。しかし何かがない。ね。なんなんだ、なんなんだ、っていう思い出だけで(笑)――思い出っていうか思い出からくる心の渇望だけで、しかしもう手放した菩提心に次いつ巡り合えるか分からない。そしてその、なんていうかな、なんとなく心が物足りなさを感じるその修行の道をまた何生も何生も歩まなきゃいけないかもしれない。
 だから決して――もう一回言うけども、なんていうかな、今与えられた、もちろん菩提心だけじゃなくて、皆さんの場合はバクティの教えもそうだけど、バクティの教え、あるいは菩提心の教え、あるいは高度な密教の教えとかもそうだけど、そういったものっていうのはほんとにダルマの中でも非常に精髄の中の精髄であって、宝物の中の宝物であると。だからこれは何度も言いますが、決して手放さないように――手放さないっていうことは当然、頭に入れておけばいいっていう問題じゃなくて、われわれの心に根付かせなきゃいけない。来世もそれを持っていけるように、菩提心で心をいっぱいにすると。菩提心で頭をいっぱいにすると。菩提心で自分の体をどんどん形作っていくと。それを考えるようにしたらいいね。それだけの、ほんとに高貴な、かけがえのない宝物なんだっていうことですね。
 だからこれは、もう一回言うけど、シミュレーションしたらいい。つまり、もし来世菩提心に巡り合えなかったら――これを考えたら、やはりそれは大変な損失であると。ね。そう考えると――もちろん、これはさっき言ったようにバクティとかもそうですよ。もし来世わたしがバクティの道に巡り合えなかったら。例えばその主への愛、主のしもべとなること、あるいはすべてを主の愛と考えて自己を明け渡すこと、これも、こういったバクティの教えに対しても皆さんは今生、いろんな、ちょっとしたプレッシャーを感じるかもしれない。ああ、ヨーガスクール・カイラス、なんかすごいところに来ちゃったなと。なんか「明け渡せ、明け渡せ」とかばっかり言ってる(笑)。「神にすべてを明け渡せ」とか言ってると。「これがバクティ、最高の教えだ」とか言ってると。あ、それ、なんか分かるような気がすると。分かるような気がするけど、ちょっとそれは厳しいなと。うん。ちょっと冗談じゃなくてね、ほんとにそういう人いるんです。ほんとに、新しい人でね、勉強会に初めて参加して、で、あるときから来なくなっちゃったと。で、あとで聞いたら、「すべて明け渡せとか厳し過ぎる」と(笑)。「だからちょっと今のわたしには無理だ」って言ってた人がいて。
 もちろん、実際には――ちょっと話がずれるけどね、ある人が例えばこういった勉強会とかに来るとか、あるいは教えを学んだりして、そのときに例えばどういう話を聞くのか、あるいはどういうダルマに巡り合えるのか、これはもちろんね、カルマでもあるし、神の計画です。だから今わたしちょっと冗談っぽく言ったけども、例えばある人がここに来て、たまたま非常に厳しい話を聞いて、心にちょっと恐れを感じて来なくなったとしても、それは問題ないんです。問題ないっていうのは、おそらくその人は多分実際にはそれを受け入れるカルマがあるんです。それをやらなきゃいけないカルマがあるんだね。だからそれを聞くカルマがあったわけだけど、まだ現時点ではショックが強かったといえる。でも多分そういう人っていうのは今生か来世か、まあ今生でしょうけど、また、またちょっとずつ寄ってきて(笑)、

(一同笑)

 ワーッて離れちゃったけど、ちょっとずつ心がやっぱり、忘れられなくて寄ってきて(笑)、で、そうしてるうちに主にバッて捕まると(笑)。で、もう逃れられなくなるんだね(笑)。
 まあ、それはいいとして、そのようなバクティの教えを聞いて、皆さんの心にも、ちょっとこう躊躇する、あるいはエゴがね、嫌だなって感じる部分もあるかもしれない。でもそれに従ってたら、来世それはなくなるかもしれない。それはエゴにとってはとてもラッキーですけどね。エゴにとっては、「あれ? 今生、バクティもないし菩薩道もない。やったー!」と。ね(笑)。エゴっていうのはまさに心を支配してる、まあ居候みたいなものだから、エゴの気持ちからすると、うちの主人であるこの修行者の心はもう前生はほんとに菩提心、バクティとかいって、もうエゴのわたしをさんざん苦しめたが、今生それないと。楽だ! 思う存分わたしはこの心の中で遊んでやる!――ね。来世、エゴにとってはいいけどね。でも皆さんのほんとの気持ち、ほんとの心の修行者としての意識は大変な喪失感を味わうはずです。もし来世、菩提心もなくバクティの教えもなかったらね。
 だからそういった、なんていうかな、逆のマイナスのシュミレーションっていうのはたまにやってみるといいと思う。つまり、もし菩提心がなかったら、バクティがなかったら、そんな味気ない――もちろんさ、さっき言ったように逆に、まだあまり修行っていうのを知らない、まだ地獄や動物や餓鬼のカルマが強く、まだダルマと縁がない魂にとっては、例えばニルヴァーナの教え、あるいは単純な個人的解脱の教え、この輪廻を超えてニルヴァーナに帰るっていう教えは大変な魅力です。大変なあこがれであって、大変な心の喜びを感じる教えだね。これはこれで段階的には素晴らしい。しかし、一度でも菩提心の素晴らしさ、あるいはバクティの素晴らしさに気付いてしまった魂にとっては、それさえももう味気なくなってしまうんだね。ニルヴァーナなんて味気ないと。ね。個人的解脱なんて、そんなのは意味がないと。もちろん素晴らしいとは思うけども、心がそんなに喜びに震えないと。ほんとに喜びに震えるのは、衆生のために生きる菩提心であり、あるいは主のためにすべてを差し出す、ただ主のしもべとして、道具として生きるバクティの道であると。あるいはただただ主の愛に自分を捧げるバクティの道であると。ね。
 そしてもう一回言うと、皆さんはそれに今あぐらをかいてる。あぐらをかいてるっていうのは、こんな素晴らしい菩提心、バクティが与えられながら、それがいつなくなるかも知れないっていうことも分からないで、「ああ、分かってるけど、なかなかこれできないんですよね」と(笑)。「バクティとか菩提心とか分かってるんですけど、なかなかねー」とかいう感じであぐらをかいてるうちに、いつ消えるか分かんないよ。
 だから、何度も繰り返すけども、皆さんの中にいろんな方法で、しっかりとこのバクティも含め、菩提心も含め、今生出合ったこの素晴らしいダルマをしっかり根付かせて――もちろん今生のうちにすべて完成、成就できれば最高ですけど、それができなかったとしてもその習性を根付かせた上で転生できるようにね、具足するために、真剣に励んだらいいと思うね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする