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解説「菩薩の生き方」第七回(5)

 はい。これはわかりやすいと思いますが、しかしこれは、これもいつも言うように、逆のパターンもある。逆のパターンっていうのはつまり、これは『入菩提行論』にもあるように、「一瞬の怒りが、数千カルパ積んだ功徳をすべて破壊してしまうこともある」と。うん。つまりこれは怒りだけじゃなくて、一瞬持った邪悪な思い、一瞬持った不敬なる思い、一瞬持ったけがれた思いが、その人が何億回と生まれ変わって積んできた神との縁、菩薩としての心、あるいは膨大な徳というものを、全て破壊する最初の一因になる可能性がある。
 これも前に『入菩提行論』の解説で言ったけども、それ一回でいきなり、「はい、バーッて終わり」っていうことはたぶんないでしょう。ないけども、そのスタートによって気付かぬうちにその人の中にそれが育っていき、で、何生かわかんないけど、何生か先には「ああ、彼は何生か前には偉大な菩薩で神との縁があったのに、今は本当に人の不幸を願う邪悪な存在に成り果てた」っていうこともあり得るんだね。だからこれは非常に怖い。逆のことを言うとね。
 だからわれわれは本当に念正智して、自分の小さなけがれも甘く見ず――特に、いつもここで言っているけどさ、皆さんにお勧めするのは、バクティと菩提心ってあるよね。バクティと菩提心。この二つこそが、われわれを速やかに、まあ、幸せにしてくれるし、あるいはわれわれの本当の生まれてきた使命を達成する二つのエッセンスであるという言い方をする。しかし逆に言うと、われわれの危険ポイントは、この二つの逆の発想、つまりバクティと菩提心ではなく、神や聖なるものへの不敬、そして菩提心ではなくて他者を憎んだり害したいと思う心、これは今のバクティと菩提心の逆で、ものすごく速やかに(笑)、ものすごいパワーでわれわれを引き落とします。だからこれは本当に気を付けなきゃいけない。
 もちろん、いろんな悪ってあるよね。あるいはいろんな修行上のマイナスってある。でも――だからわたしはいつも言っているけど、例えばいろんな懺悔があったとしてね、「先生すいません。アイスクリーム食っちゃいました」「まあ、じゃあ次頑張れ」と(笑)。「それはそれでまあいい」と。「先生すいません。ちょっと、修行を怠けて面白いテレビ見ちゃいました。」「まあ、それは懺悔すればいいよ」と。うん。「先生すいません。いっぱい食べすぎてしまいました」と。「まあ、がんばればいいよ」と(笑)。そんなことはどうでもいい話なんだけど。「煩悩的な本を立ち読みしちゃいました」とかね。別にそれは(笑)、まあ、しない方がいいけども、そんなに致命的ではない。しかし、聖なるものへの不敬なる思いや言葉や行動、あるいは他者を害したいって思う心や言葉や行動、これは大変致命的です。致命的っていうか、致命的な引き金を引くようなものがあるんだね。しかし無智なわれわれは、そんなに致命的とは思わない。かたち上の、もうちょっと目に見えるね、戒律であるとか、目に見える、例えば修行上の、まあ苦行的なことや、あるいは決まりを守るとかね。うん。そういうことの方が重要に見えるわけだけど。
 もちろんそういうのも重要なんだけど、繰り返しますが、われわれの心を引き落とし、あるいは逆に引き上げる。この重要なエッセンスが、「さあ、われわれは神に対してどれだけ純粋に信仰を持ち、聖なるものに対してどれだけ強い愛を向け、そこに自分を明け渡せるか」っていう方向性と、逆に「聖なるものに対して不敬なる思いを持つ、あるいはけがれた意識を持つ、あるいは害する気持ちを持つ」。この二つね。これがわれわれを強烈に引き上げ、あるいは強烈に引き落とす。
 で、もう一つは、衆生に対して、周りの衆生に対して、心からみんなを幸せにしたいと思う。あるいは自分の人生を賭けてみんなのために生きたいと思う。あるいはみんなが幸福であればそれでいいんだと思う。この気持ちはわれわれを強烈に引き上げるし、逆に衆生に対する怒り、あるいは否定、あるいはもっとひどいので言えば、みんなが不幸になれという気持ち、あるいはそういった言葉、行為、これはわれわれが思っている以上に、強烈に魂を引き下げます。
 ですから、これは徹底的に念正智する必要がある。徹底的に、今言った悪い二つのことは、心に絶対近寄らせないようにして。
 だからこれはね、前にも言ったけど、自分の心が堅固になるまでは聞いてもいけないですよ。聞いてもいけない。そのような、例えば人が聖なるものに対して冒涜してたとか、あるいは衆生の不幸を願うような言葉を発したりとか。そういうのは聞いたり見たりしてもいけない。だからネットとかでもそういうの見ちゃいけないよ。ちょっと面白がってね。「あ、こいつら馬鹿なこと書いてんな」とか思いながら、聖なるものへのけがれた言葉とかを見たりしたら、それもわれわれの心を非常にけがします。そういうのを近寄らせないと。で、ひたすら、ねえ、聖なるものへの純粋なる気持ち、いかにそれで頭をいっぱいにするかと。それから自分よりも他者。自分の幸福はどうでもいいと。いかにみんなの幸福を願う心をつくり上げるか。最初はもちろんそれは演技でもいい。演技とか思い込みでもいいので、自分の心を慈悲でいっぱいにすると。
 はい。ちょっと話がずれちゃいましたが、その一個一個、ちょっとした心の思い、ちょっとした言葉、ちょっとしたそこで出てくる感情や行動が、本当に馬鹿にできないんだと。
 

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