解説「王のための四十のドーハー」第二回(11)
(T)質問なんですけど、途中で先生の話の中に、今に集中するっていう話があって。でも慈悲の教えとか、そういった二元的な、例えば『入菩提行論』とか『バガヴァッド・ギーター』みたいな教えを学んで自分を固めておけば、その今の集中が反れたときに、煩悩は出てこなくて、慈悲とかそういったものが出てくるっていうようなお話があったんですけど、逆に言うと、今に集中してるときっていうのは、その相対的な――その絶対的な、絶対的菩提心とかじゃない、自分の中で教義として学んだ上での慈悲とかっていうのは消えているっていうことになりますか?
教義として学んだ慈悲は消えてるね。絶対的な慈悲は、出るかどうかは、その人にステージによるね。
(T)その今に集中したときに出るものっていうのは、その人のステージによる?
そうだね。
(T)そのステージっていうのは、培ったものっていうよりも、どれだけ自分のけがれが落ちてるかっていうことですか?
それはだから、一概には言えない。つまりいろんな要素があって、最終的に、その絶対的な智慧と絶対的な慈悲を身に付けるわけだけど、その途中でやんなきゃいけないことはたくさんあって。だからその魂の成熟度っていうか。簡単に言うと。
(T)じゃあ、その今に集中できてるときっていうのは、例えばそういう相対的な慈悲の思いとか、教えっていうのは消えていって……消えないものっていうのはありますか?
消えないもの?
(T)例えばそれはグルであるとか。
あ、もちろんさ、それは完全に、その人の修行のスタイルによる。スタイルによるっていうのは、例えばその人がバクティヨーガ的、まあもしくはチベットとかの密教でもそうなんだけど、つまりグルヨーガ的なものとか、バクティヨーガ的なものがあると、つまりこれは完全にカルマヨーガが絡んできます。カルマヨーガっていうのはまさに、今の瞬間に集中する教えなんだね。じゃあ瞬間に集中して何もやらないのかっていうとそうじゃなくて、神の使命、あるいはグルの使命のみをただやるんだね。つまりこの観点から言うと、今に集中することによって、一切、未来への成功や失敗への思いとか、過去への思いは消えて、今なすべきことだけに完全に集中する人になる。これはだから、バクティヨーガ、グルヨーガ、カルマヨーガが絡んだ場合だね。で、もしそういう要素がもしなかったとしたら、何もなくなります。それは……
(T)じゃあ、例えば空、空性に集中するとか、よく……
そうそう、例えば瞑想でね、例えばそういうバクティとかグルヨーガとかカルマヨーガとかの要素が少なくて、瞑想ばっかりやってる人の場合。瞑想ばっかりやってる場合、「今この瞬間に集中だ」ってやったら、すべて消えます。つまり、愛も消え、教学も消え、グルも神も消え、ただ光り輝く心の本性だけがある場合。これはこれでもちろんその人の人生だから――人生っていうか(笑)、やり方だから。ただ何度も言うように、それではこの現代社会ではやっていけない。われわれはだから、生きなきゃいけない。活動しなきゃいけないから。だからわれわれが合ってるのは、バクティヨーガ、あるいはグルヨーガ、カルマヨーガだね。
(T)その集中するときっていうのは、その今に集中するっていうのは……
ただね、そのグルヨーガとかバクティヨーガの――ちょっとまた別の言い方をすると、つまり、逆にね、神やグルに集中することによって、「今」を発見するんです。方法論としてね。つまり「今に集中して、グルや神は消えるんですか?」じゃなくて、今に集中できないだろうと。だから神やグルに集中しなさいと。で、その大前提として、神やグルというのは、過去・現在・未来を超えていますと。あるいは存在・非存在を超えていますと。だからあなたは、今とか言ってもよく分かんないだろうから、ただグルや神に集中し、ほかのものは一切消しなさいと。そうするとその人の世界は、グルや神だけになる。で、それでほんとにほんとに集中が成功したら、さっきも言ったように、その他のものが一切消え、でもその例えばその人に、グルや神から与えられた使命が、慈悲とかそういうものがあるとしたら、ただその実行だけのためのこの一瞬になるんだね。だからこれは完全に、その人の修行との縁とか、師との縁とかによって全然違ってくる。
(T)その集中を、例えばグルに集中するとか、そういう……グルならグルに集中していった上で、例えば周りの現象であるとか、例えば人も含めて、あらゆるものが――例えば神とかグルの一部であるという感覚っていうか、そういうのを感じるのは、集中が反れてるわけではないんですよね?
いや、端的に言ってしまうと、相当修行が進むまでは、だいたいみんな擬似的なんです、すべては。つまり本当に今に集中はできていない。でも、すべてがグルの一部であるとか、神の一部であるっていう思いが出てくるのはいいことです。それはつまり、ほんとの集中に向かってることではある。だからそれは、前提がまず間違ってるんだね。つまり集中はできてないんです、そもそも。しかし、集中に近い状態に入っている。で、そこでグルや神の一部っていう思いが出てくるのは、それはもっと近づいてることだから、それは全くかまわない。
(T)分かりました。
だからここも、なんていうか、もしそういうバクティとか慈悲とかの教えがないとね、単純に空とかマハームドラーの教えだけしかもし知らない人がいたとしたら、やっぱりね、やっぱり危険が多いと思うんだね。自分はまるで今この瞬間に集中してるような気持ちになってしまう。でも本当は集中していない。でもそれを判定するものもないし、補助するものも非常に少ないっていうか。だから一見二元的なそういった帰依とか慈悲とかの教えで、さっきも言ったようにガチガチにガードすることによって、まあ、ずれない。ずれずにほんとに――つまり二元を使って一元に向かうっていうかな、そういうところがあるんだね。
はい。ほか何かありますか?
Kさん、今日は難しかった(笑)?
(K)はい(笑)。
でも別に、なんていうかな、カイラスの人っていうのは、もちろんKさんとかもそうだけど――例えばこういうことっていうのは、すごく論理的に、もしくは抽象的に、究極の真実を表わそうとしてるだけであって、やることは別に――Kさんだったらね、「すべてはシヴァの愛だ!」――これでいいんです(笑)。これをより純粋に高めていけたら、ゴールは同じだから。うん。さっきも言ったように、表現がいろいろ違うんだけど。
はい、ほか、何か、特にないかな? はい、じゃあ、なかったから今日はこれで終わりにしましょう。おつかれさまでした。
(一同)ありがとうございました。