妄想ではなくリアルを生きる
我々の人生は全く、妄想と後悔に満ち溢れている。
まだ見ぬ数年後、数ヵ月後、数日後、明日、数時間後、数分後のことで頭がいっぱいだ。
あるいはあるときは、過去の後悔や、過去の栄光で頭がいっぱいだ。
今はどこにいったのか。
今はどこにもいかないはずなのに。
過去の後悔や未来の不安を持つことはもちろん良くないが、良い思い出や楽しい未来を思うことは良いことではないかと言う人もいるかもしれない。
たしかにそれは相対的な意味では、後悔や不安よりは良いかもしれない。
しかしなぜ、今を見捨てるのか。
なぜ、今をあきらめているのか。
そこが不思議なところだ。
今という最高に新鮮な時をあきらめ、まだ早熟な未来や、古くなった過去を楽しもうとする心が人間にはあるようだ。
今こそがすばらしいのに。
それは痛みであっても、喜びであっても、今こそがすばらしい。
それは最高に新鮮な神の恵みであって、心の輝きから生じる収穫なんだ。
実際はすべては生き生きとしている。それを腐敗させているように見えるのは、今という時のせいではない。自分自身が、腐敗した過去や、まだ実体のない未来にしがみついているだけだ。
今に飛び込め。それはきっと、恐怖があるだろう。それは無防備になる感覚があるから。そこでは、頭の中の計画は可能だが、心の計画は捨てなければならない。
その無防備さに対する恐怖により、人は今を遠ざけ、常に過去と未来という予測可能な偽りの「作られたイメージ」にしがみつくのだろう。
唯一常に新鮮な、今を楽しめ。
いや、でももちろん、そこには危険もあるよ、無防備だと。
なぜって、今という瞬間に飛び込むのは、あまりにもむき出しな世界に行くことなんだ。それこそが唯一のリアルなんだけど、まだ心の汚れを有した我々のこころのリアルさは、良い部分ばかりではない。むき出しの悲しみ、むき出しの痛みもある。
しかし実は、それがまた良いものなのだ。楽しいものなのだ。
しかしできるだけそういったものを避け、むき出しの至福だけを味わいたかったら、ヨーガ修行をしましょう(笑)。いかに無防備でも、ヨーガ修行が、そしてブッダや神々との絆が、我々を守ってくれるだろう。
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