菩薩の道(5)その8「四禅、蓮華座」
さて、この禅定の項目は時間がかかりすぎていますね(笑)。どんどん高度な内容になっていきますので、ここから先は比較的簡潔にまとめていきたいと思います。
第三番目の禅定は、念と捨がポイントになります。
念とは何度も出てきましたが、たとえば仏陀や真理に対して、あるいは人間や宇宙の実相に対して、あるいは慈悲や菩提心、こういった教えを、繰り返し繰り返し心に植えつけることです。そして捨とは、自分自身の苦楽に対して、まったくとらわれないことです。
本当はこの状態の完成はこの後、第四番目の禅定においてなのですが、この段階からその修習が始まるのでしょう。
真理や慈悲の念が心に確定され、そして過去や未来への苦楽の妄想から解放されていくのです。
そして第二禅定までは「喜び」と「楽」という二つの至福感が伴いましたが、このうちより粗雑な「喜び」が消え、純粋な「楽」の世界に落ち着きます。これが第三禅定です。
そして最後に第四禅定が来るわけですが、ここにおいては、その「楽」の状態も捨て、苦楽の二元を超えていきます。
そして純粋な真理の念だけが残る状態です。
ところで、後代の教学では、この第四禅定までを色界と定義しますが、実際は、第四禅定は、色界の頂点(すなわち存在の世界の頂点。これを「有頂天」といいます(笑))から始まる、その後のプロセスを全部含んだ段階の説明であると思います。まあだから色界の最上位というのは、この本当の第四禅の入り口といえるのではないでしょうか。
もちろん、細かな説明では、この後に無色界の瞑想プロセスとして、四無色定がきます。これは言葉だけ簡単に説明しておきましょう。
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想
受想滅
これらのプロセスを通って、ニルヴァーナにいたることになります。そしてこれらのプロセスは、「八解脱」と対応します。
つまり「解脱」というのは非常に曖昧というか広い意味を持つ言葉ですが、お釈迦様は八段階の解脱を定義しているわけですね。たとえば今まで説明した禅定のどれか一つを修めただけでも、それは一つの解脱となるわけです。そして完全な解脱とは、そのすべてのプロセスを終え、欲界・色界・無色界の三界から完全に自由になることです。
もちろん、繰り返しますが、菩薩の修行は単純に個人が三界から解放されてニルヴァーナにいたることではなく、純粋広大無辺な心、全智の心を培っていくことなので、単純にこのプロセスをたどればいいということではなく、その質が問題とされます。
しかしこの辺の詳しい説明については、また後の機会にいたしましょう。
さて、原始仏典で三昧(サマーディ)や禅定(ディヤーナ、ジャーナ)という言葉が出てくるとき、その説明としては、ほとんどこの四禅が出てきます。「禅定相応」という経典も、繰り返しこの四禅について述べているだけです。
だからこの四禅が、正しい瞑想の軸となることは間違いないでしょう。そしてそれを軸に、大乗仏教や密教では、さまざまな瞑想やサマーディが登場します。
しかしそれらの各論については、またそれぞれ述べる機会があったときに、説明を譲りたいと思います。
ところで、このような本格的な瞑想に入るにはさまざまな準備が必要ですが、身体的な瞑想時の姿勢も、非常に重要なポイントになってきます。
具体的には蓮華座もしくは結跏趺坐といわれる座り方ですね。これはお釈迦様が悟りを開いたときの座り方であり、またヨーガでも最高の座法です。また、密教においても、ヴァジュラーサナ(金剛座)、もしくはヴァイローチャナ(大日如来)の姿勢といい、理想的な座法といわれています。
もちろん、蓮華座を組むだけではなく、しっかりと腰を入れ、背筋を伸ばし、肩の力を抜いた姿勢が必要です。手は、特に指定がなければ、左の手のひらの上に右手の甲を乗せて、親指同士をつける法界定印がいいでしょう。
実際はこの蓮華座は、見よう見まねだけでは最高の力を発揮することはできません。実際に気が通り、正中線に一本棒が刺さったような感じになり、自然に頭が上に引っ張られるような感じになり、自然に腰が入り、足がきつくしまっていく状態があります。それは修行のある段階で、自然にそうなっていきます。
しかしその補助には、ヨーガなどの身体的なトレーニングが必要だと思いますね。現代では特に心も、神経系も、ナーディ(気道)も、ボロボロの良くない状態になっていますから、まずその修正から入らないといけません。
今秋、ブッダガヤーに行ったとき、お釈迦様が悟りを得た金剛座の周りで、各国のお坊さんたちがそれぞれ一心に瞑想していたのですが、皆、背筋を丸め、非常に姿勢が悪かったのが残念でした。
これは観念的に言っているのではなく、経験上、ハッキリしていることなのです。瞑想時の姿勢は、瞑想の内容に大きな影響を与えます。もちろん、蓮華座を組まず、姿勢が悪い状態での瞑想が全く意味がないとは言いません。しかし効率は悪いでしょうね。
ヨーガでも、初期のアーサナというのは、そもそも体操のことではなく、座法のことです。しかしその座法がびしっと正確に組めないような身体の状態に人間がなってきたので、正しい瞑想姿勢を作れる健康で正常な心身を取り戻すために、いろいろな体操的なアーサナが発達していったのだと思います。
ですから繰り返しますが特に心身や神経系やナーディが詰まりやすい現代では、初期段階でしっかりとアーサナや気功や呼吸法などで身体の浄化を行ない、その後に瞑想に入るようにしたほうが、効率はいいと思いますね。
蓮華座については、また機会を改めて、あとでもう少し書いてみたいと思います。
さて、禅定の項はもう少し続きます(^^;)。
-
前の記事
◎マハーバーラタのクリシュナ -
次の記事
仏教修行者の基礎(4)「ニルヴァーナへの趣入」