クンサン・ラマの教え 第一部 第六章「師にいかに従うか」(1)
第六章 師にいかに従うか
師に従わなくても完全な仏陀の境地に至ることができると説いているスートラ、タントラ、シャーストラは一つもない。また、自分自身の創造力や才能だけで、悟りの段階や道における成就を得た者はいない。それどころか、すべての人々は、道を誤ることだけに関しては【優れた】才能を持っている。しかし、悟りと全智へと導く正しい方法については、荒野の真ん中で彷徨う盲人のように混乱している。
経験豊かなガイドに頼らなければ、宝の国から宝石を持ち帰ることはできない。師は、悟りと全智へと導いてくれる真のガイドであり、尊敬を持って従わなければならない。
師に従うには、三つの段階がある。まずは師を吟味することであり、次に師に従うことであり、最後は師の悟りと行ないを真似ることである。
(1)師を吟味する
わたしたちのような一般人のほとんどは、自分の周りの人や環境の影響をたやすく受ける。よって、常に師に従わなくてはいけない。
マラヤ山の白檀の森の中に生えた普通の木は、白檀の甘い香りを染み込ませながら次第に成長していき、数年後、その普通の木は、周りの白檀と同じ甘い香りがするようになる。同様に、善き特性に満たされた完全なる師と一緒に過ごし学習すれば、その善き特性の香りを染み込ませ、することすべてが師に似てくるようになる。
自分が従おうとする師は、最低限、次のような特性を持っている人物でなければならない。
清らかであって、外なる出家戒、内なる菩薩の戒、秘密真言乗の秘密の戒という三つの戒や誓約を保っていること。
学識があり、タントラ、スートラ、シャーストラの知識を持っていること。
その心は衆生への慈悲で満たされており、すべての衆生を自分の独り子のように慈しんでいること。
外的には三蔵の儀式、内的には四部の儀式に熟達していること。
教えが意味することを実践することによって、けがれを完全に浄化し、成就すべきことを成就していること。
寛容であり、言葉は快く、個人の必要に応じて教え、教えていることに一致したふるまいをすること。
また、秘密真言金剛乗における直接の導きという甚深な精髄の教えにによると、従うべき師は、次のような師である。
系統のアビシェーカによって完成している。
サマヤや戒に違反していない。
悪しき感情や考えがなく、穏やかで規律正しい。
秘密真言金剛乗の土台、道、結果のタントラのすべての意味について習熟している。
生起次第と完成次第の修行において、イダムのヴィジョンを見るといった成就のすべての印を持っている。
心の本質を体験し、悟りを得ている。
他者の幸福だけに関心を持ち、心が慈悲に満たされている。
現世の俗事に対する執着がない。
ダルマに対する確固たる正しい考えを持っている。
輪廻が苦しみであると理解して、大いなる慈悲を抱いている。
弟子を導くことに長け、一人一人に合わせて最適な方法で導く。
師の命令をすべて実行し、祝福を得ている。
一方、次のような特性を持つ師には、従わない方がよい。
木でできた石臼のような師。この師は、教えを聞くこと、考えること、瞑想することから生まれる特性を持っていない。単に誰それの師の息子や甥として、自分や自分の子孫が他より優れていると考えて、ブラーフミンのように自分たちの身分を守り出す。ほんの少し教えを聞いたり考えたり瞑想したりしたとしても、清らかな目的ではなく、自分の領地が減らないようにするためなどのつまらない目的のためである。弟子を指導しても、それは木でできた石臼のようなもので、適切な指導をすることはできない。
井の中の蛙のような師。この種の師は、一般の人と異なる特別な特性が全くないのに、盲目的に崇拝されていることがある。利益と名誉によって自尊心を膨らませているため、真の偉大な師が持つ偉大な特性に全く気付くことがない。まさに井の中の蛙のようなものだ。
狂った師。この種の師は、正しい教えの知識がほとんどなく、顕教と密教の訓練をしようと努力することも全くない。悪しき感情が強く、注意深さも警戒心も弱いため、戒やサマヤを緩めてしまう。一般の人々よりも精神が低俗であるのに、成就者の振りをして、自分が空より高い地位にあるかのようにふるまう。怒りと嫉妬をあふれさせ、慈愛と慈悲という命綱を断ち切ってしまう。このような者を狂った師と呼び、このような師に従うと、誤った道に導かれてしまう。
盲目の師。弟子よりも優れた特性を持っておらず、慈愛も慈悲も菩提心も持っていない場合、弟子の目を開くことはできない。この種の師は盲目の師と呼ばれる。
ウッディヤーナの偉大なる師(パドマサンバヴァ)は、次のように説いた。
師を吟味しないことは、毒を飲むようなものだ。
弟子を吟味しないことは、絶壁から飛ぶようなものだ。
正しい真の師に巡り会い、その弟子となったならば、その瞬間から、その師を仏陀そのものであると常に考えなければならない。
これから何回生まれ変わっても、師を信頼しなさい。師こそが、なすべきこととなしてはいけないことを教える。
真の師は、完全な資質をすべてそなえ、十方の仏陀方の慈悲と智慧を体現しており、衆生を助けるためだけに、普通の人の姿として現われている。
完全な資質を無限にそなえた師は、
すべての仏陀の智慧と慈悲を持ち、
衆生のために人間の姿で現われた。
師こそが、すべての成就の最上の源である。
真実の師は、普通の人の行ないに合わせた行ないをなしている。そうすることによって、人々をうまく導くことができるからだ。しかし実際にはその智慧と慈悲は仏陀そのものであり、他の誰とも全く違っている。一つ一つの行ないは悟りを得た者の行ないであり、救うべき人々の性質に合わせたものである。ゆえに、真の師は、比類なき聖者である。ためらいや疑念を断ち切る方法に長け、恩知らずでひどい弟子たちに辛抱強く耐え、まるで独り子の母のようである。
わたしたちを導くための方法として、師はわたしたちと同じようにふるまう。
しかし真実は、師はわたしたちとは全く異なり、
悟りを得ており、最も素晴らしい存在である。
疑念を晴らすことに長け、
わたしたちの失礼なふるまいや、感謝の心がないことにも、
じっと耐えることができる。
このような師は、輪廻という広大な海を渡る大きな船である。
船頭のように、悟りと全智へとわたしたちを運ぶための航路を作る。
甘露の雨のように、悪しき行ないと感情の炎を消すことができる。
太陽と月のようにダルマの光を放ち、迷妄の深い闇を払う。
大地のように、無礼な行ないと失望に辛抱強く耐え、見解と行ないは広大である。
如意樹のように、今生におけるあらゆる救いと来世の幸せの源である。
完全な瓶のように、必要とされている無数の乗と教えすべてを備えた宝庫である。
如意宝珠のように、衆生の必要に応じて、無限に四つの行ないをなす。
無数の衆生一つ一つをすべて平等に慈しみ、自分に近しい者に執着したり、特定の者を憎んだりすることもない。
慈悲は大河のように広大であり、空間のように無限の衆生をすべて包み込み、苦しんでいるすべての衆生を即座に助ける。
山の王のように、他者の幸福への喜びは不動であり、嫉妬によって動かされず、表面的なことで揺らぐことはない。
雲から降る雨のように、平等心は愛著や嫌悪によって乱されない。
このような師は、慈悲と祝福においてすべての仏陀方と等しく、このような師と善き縁を持つ者は、一度の人生で仏陀の境地にたどり着くこともできるだろう。また、悪しき縁を持つ者も、輪廻から救い出される。
このような師は、すべての仏陀方と等しい。
彼を害するものでさえ、幸福への道に導かれる。
真摯な信仰心を持って師を信じる者には、
三善趣と悟りの恩寵が降り注ぐ。
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