yoga school kailas

勉強会講話より「解説『母なる神』」第五回(3)

【本文】

 至高者は、あなたに向かって自分の明け渡しを求めはしても、それを押しつけたりすることはない。
 言い換えるならば、あなたは、取り返しのつかない最終的変容がやってくるまでは、自ら神を否定するも神を退けるも、逆に己をむなしくすることも、常に自由なのだ。

 ここで言っている「取り返しのつかない最終的変容」――これをまあ、どういう意味にとるかっていうのは、いくつかの意味にとれるかもしれませんが、一つの意味にとると、まあつまり、もちろんいい意味だね、ここはね。いい意味っていうのは、もうなんていうかな、皆さんのカルマ的なものが完全にもう熟して、で、皆さんがもう逃げらんないと。逃げようとしても関係がないと。もう完全にその世界に入れられてしまって――っていう段階ですね。だからこの取り返しのつかない最終的変容っていうのは、これはもちろん、変な言い方をすれば、これが来たらもう幸せです、それは。
 つまり、もう駄々をこねてる子供がいたとしてもね、最後にはもうお父さん怒り出しちゃって、「いいから来い!」ってかんじで(笑)。
 わたしも小さいころ、病院嫌いだったから、よく駄々こねてたけど(笑)。「やだー! やだー!」って(笑)。最初はいろいろなだめすかされるんですよね。「おもちゃ買ってやる」とか、「あまり痛くないよ」とか言われるんだけど(笑)、あまりにも駄々をこねてると、お父さんもキレてもう、「ふざけるな!」と。うちのお父さんすぐ――まあ昔のお父さんは大体みんなそうかな? 晩年は優しくなったんだけど(笑)、小さいころは結構厳しいっていうかな。すぐ頭を殴るお父さんで(笑)。いい人なんだけどね。いい人なんだけどなんか、すぐまあキレてっていうか、言うこと聞かないとすぐ頭をこうゲンコツでね、ゴーン! って殴って。もう頭、こぶだらけだったんですよ。まあそれはどうでもいいんだけど(笑)。
 まあ、そういうふうにもう、取り返しのつかなくなるときってあるよね。子どものときだったらね。「やべー、怒らしちゃった!」――そうなるともう、自分の意見とか関係ない。
 それで、修行者っていうか、人間っていうか、魂にもそれがあるわけだけど、もうそれは最後の方です。最後の方で、もうある意味洪水のように自分のカルマがウワーってそっちに行ってしまって、もうどうしても何も自分の意志は関係ないみたいな。――だから、これは幸せです。
 でも、それを待っててもしょうがないんだね。それを待っててもしょうがないっていうのは、もしかするとそれはだって、何万生も先かもしれないし。うん。
 じゃなくて今のこの時点においては、ここに書いてるように、神はそれは求めはする。さっきも言ったように、神から見たら、それが一番幸せだって分かってるから。「さあみんな、エゴを明け渡しなさい」と。それがあなたの本当の幸せに繋がるって分かってるから、それを神は求めるわけだけども、でもそれは強制はしない。
 これはちょうど、ラーマクリシュナのいい例えがあるよね。ラーマクリシュナのいい例えっていうのは――子どもがおもちゃで遊んでいると。で、おもちゃに夢中になってるときは、お母さんは別に声かけない。普通に家事をやっているわけですね。で、その子どもがおもちゃに飽きて、ハッと我に返って――つまりもともとお母さんが大好きだから。でもおもちゃというまやかしに夢中になってたんだけど、ある時点で飽きて(笑)、ハッとお母さんのことを思い出して、「あ! お母さんがいない!」と。「ママー! おかあさーん!」――この段階でお母さんはもう――いいですか、やってた家事すべてをストップして、子どものためだけに飛んでくると。これがラーマクリシュナの素晴らしいたとえなんだね。
 つまり神側から見ると、神がやってきてくれないとかわれわれは言ってるわけだけど、こっち側のすべて問題なんだね。こっち側が完全に、「ママー!」――つまりその今持っているもの全部捨てて――まあ、これがエゴの象徴ですけどね――エゴを捨てて、「わたしは神しかいないんだー!」っていう状態になってないから、当然母なる神はいらしてくださらない。
 でもここにおいては、皆さんは――いいですか、まず良いカルマによって、良いカルマによってなんとなく、そのような、なんていうかな、エゴとか世俗のものっていうのはわたしを本当に幸せにするものではなくて、この純粋な、絶対的な神、あるいは母なる神しかわたしにはいないんだってことは、なんとなく気づいてる。で、さらに言うならば、そのなんとなくの思いだけではなくて、教えが与えられている。皆さんは、このリアルな教えを与えられるっていう、とても素晴らしいカルマの中にある。ここにおいて、皆さんの中には選択肢ができるんですね。選択肢ができるっていうのはつまり、ここに書かれているように、「神を否定するも退けるも逆に己をむなしくする」って書いてあるけども、逆に己をむなしくしてエゴを捨てて、自分を明け渡すと。これは自由だってことです。これは神は決して強制しない。
 もちろんさっきみたいに、われわれが心から発願をしたら別です。発願をしたら、ちょっとそれを手助けしてくれる。つまり子供が、本当はおもちゃ大好きなんだけど――そういう子どもいるよね? 本当はおもちゃで遊んでるんだけど、「ママなんで来てくれないのー!」とか言って。でもママは分かっているわけです。本心じゃないなと。「本当は今、おもちゃで頭がいっぱいだな」と。でもなんか愛情欲求とか、なんかそんなので「おかあさーん」とか言ってるけど、「ああ、大丈夫ね」って感じでお母さんはいるよね(笑)。これでは全然来てくれない。だから――ただまあその中でもその、まだ本心までいってなくても、ちょっとでもその信号がいくならば、まあお母さんは「しょうがないわねえ」みたいな感じでちょっとはわれわれにちょっかい出してくれるかもしれない。これがさっき言った祝福の流れなんだね。
 はい。でもそれも言ってみれば、われわれにちょっとこう選択権が与えられてるっていうかな。だからわれわれは――もう一回言いますよ――教え、あるいは過去からの素晴らしいカルマというものによって、普通の――普通の人っていうのも変だけど、まだそのように準備ができていない人に比べたら、神に対して、あるいは母なる神に対して自分を明け渡せるかもしれない。あるいはその魂の大いなる変容、それは本当だったらどれくらい先か分からない。どれくらい先か分かんないっていうのはさ、つまり単に長いというだけならいいんですけども、つまりわれわれのこのエゴの中、その迷妄の中で、これから何万回も生まれ変わらないといけないとしたら、それはもう苦痛以外の何ものでもないからね。特に仏教理論とかでいったら、お釈迦様とかはいつも言うように、われわれの人生っていうか輪廻転生というのはほとんどが苦悩の世界だと。地獄・動物・餓鬼だとお釈迦様は言ってらっしゃるわけだけど、そのような苦悩の人生をこれからずーっと繰り返さなきゃいけない。普通だったらね。で、もう一回言うけども、われわれには、その、ただ単純に大いなる苦悩の人生を繰り返して、最後に取り返しのつかない変容がやってきて救われるっていう、そのいつ来るか分かんないものを待って苦しまなきゃいけない、苦しみ続けなきゃいけない――じゃなくて、その前に、われわれの心の解放、あるいはそうですね、すべてを神の愛と見て、すべてが至福に変わるようなもののスイッチっていうかな。それを押せる権利、押せる選択肢っていうのは、今われわれに与えられているんです。
 で、押すかどうかですね。ここで言ってる「押す」っていうのは、一瞬押した場合、それはさっき言ったように、その流れは生じるかもしれないけども、でも現実的にそんな流れにしっかり乗れて自分を変えられなければ、それは本当の意味で自分を明け渡したことにならないから。だから単純に発願をするだけじゃなくて、発願をし、で、そこで生じてくる様々な苦しみやあるいは自分のエゴをひっぺがそうとする神の働きに対して、どれだけ自分をこう明け渡せるか。あるいはどれだけ自分を、なんていうかな、エゴよりも神、エゴよりも教えって感じで、まあ制御できるかですね。
 さっきの病院のたとえでいうと、最終的変容っていうのはさ、さっき言ったように、もうお父さんがキレちゃって、体縛られて連れて行かれると。ね。これが最終的変容なわけだけども、そうじゃなくて覚悟を持って、「いや、わたし行きます!」と。自ら――まあ医者は別にどうでもいいんですけども、まあ一応例えとしてね、自ら医者に行くと。自ら医者に行って、で、そこには恐ろしいお医者さんの注射が待っているわけですね(笑)。で、普通は、さっきから言ってるのは、皆さんの発願っていうのは、「行きますよ」と。「お母さん、馬鹿にしないでください!」と。「行きます!」って言って医者に行くんだけども、ガラガラって扉を開けて、あの病院の独特の匂いや、医者の顔や手に持った注射器を見た段階で、わーって逃げ出すと(笑)。これは皆さんのよくあるパターンなんだね(笑)。うん。発願は良かったけど、注射器見た段階でもう駄目だと。
 じゃなくて例えば、注射を打つと。で、これ注射じゃなくてね――これ、ちょっと前に亡くなってしまった――何度かね、例えに出してるけど、チベットのチョギャム・トゥルンパっていうカギュー派の聖者がいて、彼が彼の講話でよく出す話としてね――まあカギュー派だからマハームドラーっていうわけですけども――マハームドラーって、そうですね、一般的には単純な禅みたいな、あるいはゾクチェンみたいなね、心の中心にアクセスする方法みたいに説かれてるけど、わたしはね、いろいろ見てると、あのミラレーパの話とかもそうだけど、マハームドラーってやっぱりちょっとかなりバクティヨーガ的っていうか、あるいはグルヨーガ的っていうか――つまり単純に心の本性にアクセスするんじゃなくて、完全に明け渡しの世界みたいな感じがあるんですね。ミラレーパとかナーローパの話ってだいたいそうでしょ? グルやブッダに自分を明け渡して、それによってもう、なんていうかな、もう徹底的な自己の手術をやってもらうっていうか。で、それをそのチョギャム・トゥルンパは、「麻酔なしの手術」って表現してるんだね。
 確かにまさにそういう感じなんです。例えばS君が荒野で怪我しちゃって、で、これは早く手術した方がいいと。でも荒野だから麻酔がない。うん。でもほっといたら死んじゃうかもしれない。で、そこで覚悟を決めて自己を明け渡すと。で、麻酔なしの手術が始まるわけだね。
 で、これは、さっき注射って言ったけども、注射との違いは、まあつまり一瞬じゃないんです。注射は一瞬でしょ(笑)? 一瞬だけども、じゃなくてつまり――あとバンジージャンプとも違う(笑)。バンジージャンプも一瞬の勇気でしょ(笑)? 一瞬勇気出せばあとはいいだけだから。わたし高いところ好きだから、わたしやったことないけど楽々できます、多分(笑)。よくバラエティ番組とかでいろんな人が高いところから飛んだりっていうのとかあったけども(笑)。ああいう感じで――あれってつまり一瞬の勇気ですよね。つまり一瞬、「えい!」ってやればいいだけ。でも麻酔なしの手術っていうのは一瞬じゃないです。ずーっとだから(笑)。ずーっと、非常にリアルな、非常にむき出しの苦痛に耐え続けなきゃいけないんだね。
 で、この場合は――今言った例えの場合は、単純に、なんていうかな、自分の置かれた状態とそれから医学というものに対して信があれば、なんとかできる。つまり、「これはしょうがないんだ」と。だって今この傷を放っといたら化膿してもうわたしは死んでしまうかもしれない。で、今この荒野には麻酔がないと。だから今は先生に身を預けて、もう痛くて痛くてしょうがないけども、それに耐えて、それが一時間、二時間かかるか分からないけども、非常にリアルな――つまりちょっと気持ち悪いかもしれないけど、リアルに言うと、メスでガーッと皮膚を切られ、肉を切られ、ね、例えばそれが内臓の損傷だとしたら内臓も切られ、何かを摘出し、あるいは腐ったところを切り取られ――っていう一連のプロセスがあるわけですね。で、終わった後もそれをしっかりと縫い合わせ、っていう一連のプロセスが麻酔なしですべて行なわれると。で、これを――もう一回言うけども、自分に知識がある程度あって、「さあ、わたしのこの傷口が今こうなっているから、当然これはこのように切られて当然なんだ」と、「そうすることがわたしにとっての最高の利益なんだ」っていうのがあって、それプラス、さっきも言った心の強さ。知識だけでも駄目ですよね。わたしみたいに病院とか手術とかが嫌いな人だったら、「なるほど、しょうがないですね」。ガリガリガリ――「もういいです! いいです! 死んでもいいよ、そっちの方がいいよ!」と、こうなってしまう(笑)。

(一同笑)

 だから心の強さが必要。心の強さも必要で、で、知識も必要ですね。で、覚悟が必要ですね。――まあ言ってみれば、だからバクティヨーガとかグルヨーガっていうのは、そういう全人生を使った大手術みたいな感じなんだね。「はい、今日のヨーガクラスです」とかの時間だけではない。あなたの全人生を使って大手術をしますよと。で、それは、もう一回言うけども、麻酔なしの手術です。
 つまり、「なんで?」って言われるとちょっと困っちゃうんだけど――これはセオリーととして言うと、麻酔なしでないとできないんです、この手術は。麻酔なしでないとできない手術があるんだね。だからそれをやりますか、っていう話なんです。で、皆さんがここで言ってる「わたしは菩薩の道を行く!」「バクティの道を行きます! すべてお任せします!」って言ってるのは、これはまさに「わたしに麻酔なしの手術をしてください」って言ってるのと同じなんです。だからそれくらいの覚悟が必要なんだね。
 でももう一回言うとね、本当は要らないんです、そんな覚悟というのは。なんでかっていうと、バクティの道でいうならば、まさに愛の道なわけですけども、その神に対する本当の愛、本当に強い愛。あるいは本当に、なんていうか、強い信頼っていうかな。それがあればね、まあそうだな、それが一〇〇パーセントあれば、心の強さも知識もいりません。つまり、これは完全にお母さんに身を任せる子供みたいなものです。お母さんが体を切り出した。でも完全に身を任せてたら――まあそういう子どもいるか分からないけども、何も聞きません。あるいは意志も、別に耐えてるわけでもない。「お母さんがやるなら間違いない」と思っているだけなんです。ただそれに身を任せてるだけなんだね。別にそれで死んでも文句言わない。これくらいの愛があれば、つまり神への心からの純粋な誠実な愛があれば、本当は問題ないんです。
 でももう一回言うけども、現実的にはないんです、われわれはまだ。もちろんそれはそれで培わなきゃいけないんですけども――まだまだそこまでいってない部分が多いから、さっきから言ってるように、それをちゃんとサポートするために、つまりそれが机上の空論で終わらないように、心の強さや教えやあるいは心構えをしっかり作るということをしなきゃいけないってことですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする