カルマ、自我、輪廻転生
カルマの法則。それは別の言い方をすると、二つの意味がある。
一つは作用・反作用の法則という物理学の法則を、意識やすべての現象まで広げたものだ。つまり「なしたことは返る」という因果応報の法則だ。
もう一つは、経験により心の習性が強まっていくという法則だ。
たとえば生き物を殺す。この人はまず、将来において「殺される」という反作用を受けなければならない。
そしてそれと同時に、心の殺伐さや怒りが増す。
たとえば心優しく、虫を殺せない子供が、友達との付き合いによって、何度も何度も虫を殺しているうちに、殺伐とした心の習性が根付き、もう全く躊躇無く虫を殺せるようになり、最後には殺生を喜びとするようにまでなるかもしれない。
これが、ある行為により心の習性が強まっていくという意味でのカルマの法則だ。
実はこっちのほうが怖い。
なぜなら、作用・反作用のほうは、かえってくればそれで終わりだ。心を動かしさえしなければ。
しかし心の習性が作られていると、また同じようなことを繰り返すことになり、カルマが結局、終わらなくなるのだ。
だから正しい生き方を心がける。そうすると、逆に苦しみが襲ってくるかもしれない。それがカルマの浄化なのだ。そこで耐えなければならない。これを仏教では忍辱という。これはちょうど、悪い組織から抜けるときにリンチを受けるようなものかもしれない(笑)。そこで耐え切れずにまた過去の悪癖を繰り返すと、いつまでも終わらない。だから自己変革には、必ず「耐える」プロセスは必要なのだ。
ところで、作用・反作用のほうを少し考えてみよう。
今生で積んだカルマは、普通はあまり今生では返らないといわれる。しかし仏教やヨーガ等の修行をすると、カルマの動きが速くなり、本当は将来、あるいは来世、受けるはずだったカルマの果報を、早く受けるようになる。
これはいいことだ。なぜなら、これは借金を早く返済しているようなものだからだ。利子もいらない(笑)。まあ、冗談ではなくて、前にも書いたように、カルマというのは放っておくと利子がつくのだ。一対一ではなくて、なした行為より増大された果報を受けなければならなくなる。
そして、カルマの流れが速くなることにより、カルマの法則性を認識しやすくなるというメリットもある。
ところで、カルマの作用・反作用の法則が真実だとして、返ってくる前に肉体が消滅、すなわち死んでしまった場合は、どうなるのだろうか?
カルマの法則が絶対ならば、何らかの形でこの「反作用」が成立しなければならない。
つまり我々はそうおいそれとは「死ねない」のだ。
カルマの反作用を受けるべく、肉体が死んでも、カルマをなした意識はそのまま、カルマの反作用を受けるための受け皿としての新たな肉体とともに再生しなければならないのだ。
これが転生であり、自我である。
つまり自我とはカルマの法則の動きそのものであるということもできよう。
そして肉体は有限で消滅してしまうので、その受け皿としての再生。それが転生だ。
そして自我はカルマの果報を受けつつも、習性によりまた同じようなカルマを積み続ける。終わらない。これが輪廻転生だ。
今日は、カルマ、自我、輪廻転生などについて、いつもとはまた違った角度で書いてみました。
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