「母なる神」第四回(6)
【本文】
神に捧げられた館に、真理と非真理が同居したり、光と闇が同居したり、明け渡しと利己心が同居したりすることが許されているなどと、ゆめゆめ思い描いたりしてはならない。自己の変容は、余すところなきものでなければならず、それ故に、自己の変容に逆らうものの一切の拒絶もまた、余すところなきものでなくてはならないからだ。
はい、これはもう読んだ通りですけどね。――「神に捧げられた館に、真理と非真理が同居したり、光と闇が同居したり、明け渡しと利己心が同居したりすることが許されているなどと、ゆめゆめ思い描いたりしてはならない。」
つまりこれは、最初の心構えのまず問題だね。頑張ってるけどできない、じゃなくて、最初からそれが許されてる、あるいは「これぐらいでいいのだ」と。あるいは、エゴの「これくらいしょうがないのだ」っていうのがあると、当然それはできないわけですね。だからまず、苦闘――われわれ修行者は苦闘しなきゃいけないわけだけど、苦闘して、苦闘して苦闘して、なんとかエゴを打ち砕いてきたけど、まだこれだけ残ってる――これは別にしょうがないっていうか、当たり前のプロセスだからいいんだけど。じゃなくて、われわれの心に甘さがあるわけですね。つまり最初から高をくくってる。「え!? できるわけないでしょ!」と。ね(笑)。「明け渡し!? まあ、できるわけないでしょう」と(笑)。この、なんていうかな、高をくくった甘さっていうかな。これが実はわれわれの大きなウィークポイントなんだね。
――っていうのはさ、これ、何回かわたしこういう話したことあるけど、そもそもね、われわれが何か達成できるかどうかの一つの第一のポイントは、「心構え」というか、「観念」にあると言ってもいいんだね。観念にあるっていうのは、まあ例えば、これは受験勉強でもいいし、あるいはスポーツとかでもいいわけですけども、例えばね――じゃあいつも例に出すけど、わたしが好きだった野球でいうとね。野球でいうとさ、わたしは高校時代は野球じゃなくて柔道部だったんだけど、例えば高校の野球部とかの練習ってすごい長いわけですね。ほかの部活に比べてもかなり長い。五、六時間とかやってるんだね。で、五、六時間やって、で、それでももちろん甲子園とか行けるのは一握りですよね。で、甲子園に行くような学校っていうのは、その五、六時間だけじゃなくて、朝練とか、あるいは自主練とかも含めて、まあ相当な時間と濃度っていうかな、密度濃い練習をしてるわけですよね。
で、ちょっと仮の話として、例えばここに、「甲子園行きたい」、もしくは、「プロ野選手になりたい」って言ってる少年がいたとしてね。でもそういった野球界の常識を知らなかったとするよ。知らなくて、自分なりに頑張ってたとするよ。で、自分なりにさ、一日三時間もやれば、「結構やった」って気持ちになるよね。でもその人は三時間しかやってないと。でもその人からしたら、「三時間でヘトヘトだ」と。三時間徹底的に基礎体力や、素振りや、ピッチングとかをやって、「もう本当におれは努力してる」と。「これ続けたらおれはプロ野球選手だ!」って思ってるかもしれない(笑)。で、その人に例えば、「いや、六時間くらいやらなきゃ駄目だよ」って誰かが言ってきたとしたら、「それはできるわけない!」ってなってしまう。でもこれはつまり、ただ観念がないだけなんです。もしその人が最初から、「高校野球ってこういうもんだよ」っていろんなテレビとか、雑誌とかで情報入れて分かってたら、「あ、普通ですね」と。「六時間で普通で、みんなやってる」と。で、さらにそれを超えたものをやって、やっと甲子園に手が届くっていう観念があったら、できるわけです、六時間くらいね。でも最初から、「いやあ、普通三時間もやったら大変でしょう」って思ってたら、六時間なんてもう夢みたいなもんになるんだね。だから完全に観念っていうか、心構えの世界なんだね。
受験勉強とかもそうですけどね。わたしみたいに――わたしみたいにっていうか、わたし受験勉強ほとんどしなかったし、それどころか宿題っていうか(笑)、家での勉強とかほとんどやんなかった。うん。やんなかったから、まあちょっとでも、例えば一時間でも――まあ価値を見出してなかったからやらなかったんだけど――その一時間でも机に向かって自主的に勉強するなんていうと、ちょっと頭がおかしくなりそう(笑)。
(一同笑)
そのころのわたしはね。いや、本当にそうだったんですよ。高校受験とかのときにね、わたし勉強嫌いだったんだけど、やっぱり親がうるさいからさ、勉強をするふりをする(笑)。机に向かってふりをして――でもふりをしててもしょうがないから、一応なんかやろうとするんだけど、なんかでも、いてもたってもいられなくなるっていうか(笑)。慣れてないから(笑)。で、これを例えば、「二、三時間続けるってどうなっちゃうんだ!」って感じだったんだけど、でも本当に東大とか目指す人とかとかはさ、本当に寝る間も惜しんで、一日十五時間、二十時間とか勉強したりしてるっていう話もあるわけですよね。そうなると、それが常識の世界になると、別にそれは普通になるっていうか。でもそういうのがないと、「それは大変だ!」ってなってしまう。
だから何でもそうなんだね。自分の中にまず、心構えのキャパシティみたいのがあって。で、これは性格にもよるんですけども、つまり何かをやるときに、「全力を傾けられるか」あるいは、「百ゼロで、全部それでいいと思えるか」っていうのってあると思うんだね。で、それを中途半端に残したい、もしくは半分ぐらいでいいっていう気持ちがもしある人がいるとしたら、それは大きなウィークポイントになると思うので、そうじゃなくて、「やるときは全力でやる」と。あるいは、一つの――まあだからこういう意味では、日常生活において、あらゆる意味で完璧主義がいいとは言わないけども、修行ではやっぱり完璧主義がいいと思います。うん。わたしは例えば掃除とかでは全然完璧主義ではないけど(笑)。ね。潔癖症の人とかいるよね。姑さんみたいな感じとかね。それくらいの完璧主義を――日常においては別にいいんですけども、修行においてはそれくらいの心構えを持たなきゃいけない。うん。「わたしはこの道に入ったからには、完璧にエゴを抹殺するぞ!」と。「ちょっとでも残さない」と。なぜかと言うと、ちょっとでも生かしておいたら、そのエゴがまたそこから増殖してね、また自分を脅かしてしまう。だから、「完全に明け渡すんだ!」と。このような最初の――何度も言ってるけどね――最初の心構えがそれです。
もう一回言うけども、「苦闘してて、なかなかそれができない」――これはしょうがないです。でも最初の心構えとして、「やるのか、やらないのか」って問題ね。そこからどれだけ目指すかっていう問題。
何度か言ってるけど、皆さんはね、理想は高く持ってください。実際そこに到達できるかどうかは別にして、理想ははるか高く持ってください。そうしないと、やっぱり行けないんだね。なんか計算して「これくらい」とか思ってると、実際にはそれくらいの半分しかいけなかったりする。だからひたすら高い理想を持つ。で、百パーセント投げ出す覚悟を持つっていうかな――のが必要だね。
だからここは本当にまず心構えの問題として――だからこのような心構えを持ってると、常にいわゆる仏教的にいうと「慙愧の念」が湧くようになる。慙愧の念っていうのは、「自分はまだまだだ」っていう思いね。最初から、ここに書いてあるように、「真理と非真理が同居してはいけない。光と闇が同居してはいけない。明け渡しと利己心が同居したりしてはいけないんだ」と。「あますところなき明け渡し。あますところなきエゴの拒絶。あますところなき真理百パーセントの自分にならなきゃいけないんだ!」っていうまず……まあ観念っていうかな。
もう一回言いますよ。つまり、「そうでなきゃおかしい」ぐらいの気持ちでいい。「そうなったらすごいやつだ」じゃなくてね(笑)。「そうでなければおかしいんだ」と。「修行者として菩薩として恥ずかしいんだ」っていう感じだね。あるいは『入菩提行論』的な言い方をすると、「そうじゃないと、この仏陀の家系に傷がつく」と。ね。「汚点となってしまう」と。で、それを真剣に日々考えなきゃいけない。
で、何度も言うけども、考えてぶつかって、苦闘するのはオッケーです。これは素晴らしい。じゃなくて、最初から諦めたような、あるいは最初から甘く見てる、最初から「これくらいでいいのだ」っていう、適当に考えてるようじゃ駄目だっていうことですね。
で、そのような大いなる心構えで自分を観察し日々修行してると、常に、さっき言ったように、慙愧の念――つまり、「ああ、まだわたしは全然理想から外れている」と。「ああ、まだまだわたしは明け渡せていない」と。このような焦りっていうかな。いい意味での焦りや、あるいは「まずいぞ!」っていう気持ちが常に湧いてね、それが自然に、自分のエゴみたいなものを駆逐していくようになります。
はい、だからこれは心構えの話ですね。だからまあこの前のところと、この今のところは、非常に大事です。つまりまず、しっかりと心構えとして、自分に百パーセントあますところなき明け渡しっていうものを、ちゃんと自分の中にドンッと置いてね、で、その上で、さっき言った念正智。日々細かくチェックすると。自分が外れてないか、あるいは悪しき習性が出てないか。あるいは出たならば、それを一つ一つ真理によって駆逐していくというのが大事だと思うね。
はい、じゃあここまで何か質問その他ある人いますか?
じゃあここもちょっとだけ瞑想しましょうね。今の一節を瞑想しましょう。「神に捧げられた館に……」っていう部分ね。ここをまた読んでもいいし、今の話を考えて、少し心の中で思索して瞑想してみてください。
(瞑想中)