yoga school kailas

心の訓練とは


20080601 心の訓練①

◎心の訓練とは

 はい。今日は心の訓練というテーマですが、心の訓練というのは、あまり日本では知られていないのかもしれないけど、仏教、特にチベット仏教の中で、明確なカテゴリーの一つとしてあるんだね。「心の訓練」というカテゴリーがね。
 ただこれは、ここの勉強会に何回も来ている人は、逆にちょっとよく分からないかもしれない。なぜかというと、ここで中心的なこととして話してるのは、大体「心の訓練」なんです(笑)。だから、特別「心の訓練」っていうものを取り出して教えの一つとする感覚は、多分みんなにもないと思うので、ちょっと分からないかもしれないけど。でも一応伝統的には、「心の訓練」という一つのカテゴリーがあるんだね。
 つまりこれはどういうことかっていうと、ぶっちゃけて言えば、修行は全部「心の訓練」なんです、もちろんね。しかし、実際にはそうなってない場合が多い。
 つまり、いろんな修行があるわけだけど、修行っていうのはもちろん形から入るわけですが、例えば五体投地とか礼拝をしながら、心の中では食べ物のことを考えているとしたら、まあこれはもちろんかたち上は帰依の修行をしているけども、心は執着が増しているというか(笑)。「早く終わらないかな。終わったら食べよう」と(笑)。「あと一回、あと一回」とかやってると、逆に執着が増してしまう(笑)。全然心の訓練になってないと(笑)。ね。他の瞑想とかみんなそうだけどね。
 もちろん呼吸法とかアーサナとか、ああいうのに関しては肉体のエネルギーから心を変えていこうというものなので、ちょっとまた違うけども。
 だから修行っていうのは、いろんな面から自分というものを変えていこうとする。でも一番一番大事なのは、もちろん心なんです。つまり、心をどう変革するかっていうのが、あらゆる修行のテーマであるはずなんだけど、これが一番とらえどころがないんだね。
 例えば、大雑把には教えがいっぱい説かれる。例えば、怒りはいけませんよ。執着もいけませんよ。慈愛を持ちましょうね――「分かりました」って、なーんとなくほわーんと、「そうだ、怒りはいけないんだ……」と。でも、日々生じるさまざまな心の働きがある。あるいは日々生じるいろんな人間関係の小さな出来事がある。そのときどう考えたらいいの? どういうふうに思ったらいいのだろうか?――という細かいことまで、ふつうは一個一個説かれているわけではないんだね。
 それはその人に、いつも言うけども、まずやる気。やる気っていうのは向上心。求道心といってもいいけども。もう一つは誠実さ。この二つがあれば問題ないです。つまり、本気でわたしは自分を変えたいんだとか、あるいはもっといえば悟りたいんだとか、神に近づきたいんだとか。そういう強い思いがまずあって、次に誠実さ。誠実さっていうのは、形だけやってるんじゃないんだと。あるいは誰かから言われてやっているんではないんだと。誠実に本当に、神の、あるいは仏陀の意に沿うような、あるいは本当に自分の心がきれいになるような、あるいは人々のためになるような道を歩みたいんだという誠実さだね。この二つがあれば、本当はあまり問題はない。でもなかなか難しいんだね、やっぱりそれはね。

◎エゴの放棄と菩提心

 例えば、瞬間的に短い間そういう思いにはなれても、二十四時間その思いを持続させるのは非常に難しい。すぐにエゴの方にやられてしまうっていうか。よって、具体的に、非常に実質的な感じで、心を訓練していくような体系というのかな、そういうのが出てきてるんだね。それを心の訓練の修行というんですね。
 それは実際には、お釈迦様の時代から、もちろんそういう教えっていうのはいろんなところにあって、それからここでいつもみなさんに勧めている「入菩提行論」ね。あれなんかまさに全部心の訓練みたいな経典です。徹底的にいろんな場面での考え方を説いている。
 「入菩提行論」とかを見ると分かるけど、この心の訓練の修行っていうのは、完全に方法論なんだね。方法論ってどういうことかっていうと、別に客観的真理を説いているわけじゃないんです。つまり、宇宙はこうなっていますよとか、人間の心の仕組みはこうなってますよっていうことをいっているんじゃないんです。「こうやれ」っていっているんです(笑)。君が悟りたかったから、こう考えなさいと。それはなぜですかっていうのは関係ないというか。つまり、こうしなさいと。これがあなたのやるべきことですよっていうのがズバッと説かれているのが、心の訓練の教えですね。
 で、もちろんそれは伝統的には、大乗の――つまり菩提心とか四無量心とかに基づいた心の訓練という形になってる。つまりこれは、今日あとで読んで出てくると思うけども、結局ポイントは何かっていうと、一番のポイントは「エゴの放棄」、そして「菩提心」。この菩提心っていう言葉は、四無量心とか慈悲と言い換えてもいいけども。つまり「エゴの放棄」と「慈悲」――これのみが、自分とそれから周りを幸福にする道なんだと。
 で、もうちょっと言うと、すべての自分の苦しみの原因はエゴだと。エゴって自分のエゴね。そして、自分のすべての喜び・幸福の原因は、慈悲であると。この究極的な教えがある。これをいかに体得するかなんですね。それを日々いろんな細かい部分でいかに体得するかの教えがある。

◎ショッキングな気づき

 で、これは、いろんなところにエッセンスとしては出ているんだけど、ズバッとこれが説かれるっていうことは、実はあまりなかったんだね。ある時期までは、なぜか秘密の教えとされてたんです(笑)。
 ここでこういうことを言うと、「え? なんでそれが秘密なんだろう?」って感じかもしれないけど、わたしは実はよく分かるっていうか。普通これは理解できないんです。それはどういうことかっていうと、実はわたし自身もそうで、前にもこれは言ったけど、わたしは実は小学生ぐらいのときから仏教の本とか読んでて、中学生ぐらいからヨーガとか始めて、だからいろんな教えを学んできた。で、実際修行もいろいろやってきた。で、教えというのは、いろんなところでいろんなことを言っているわけです。で、それをいろいろ実践したり学んだりしながらやってるうちに――だから、そうですね、もし小学生から入れるならば十年とか経ったころ。本格的に修行してからでいったら五~六年とか七~八年とか経ったころ。二十代の初めごろかな、ハッと気づいたことがあった。それは、
「これ、いろいろ言ってるけど、結局唯一重要なエッセンスは、エゴの放棄と慈悲の教え――これだけなんじゃないか」
っていうのに気づいたんだね。
 でもそのときの自分としては、ちょっとそれはショッキングな気づきだったんです。「え? そうなの?」っていう感じがあった(笑)。多分そうだと思ったんだけど、「え? そうだったの?」っていう感じがするんだね。
 だって、そうじゃない教えとか関係ないような教えとかもいっぱいあるわけだけど、全部がそこに集約されてるっていうことになんとなく気づいた。これはすごいことに気づいたと思ったんだけど、自分でも非常にそれはショッキングな感じで。
 で、それを、その当時周りにいた人とかに――つまり実際に修行している人とか、あるいはわたしが教えていた人とかに言ったわけだね。「実は、ちょっとすごいことに気がつきました」と言って(笑)、そういう話をしたら、みんなやっぱり驚く。で、ある人は、「実は、うすうす気づいてた」と(笑)。つまり、そういう方向性は気づいてたと。でもそこまで極端なというか、はっきりしたものだとは思わなかったっていうことを言ってた人がいた。
 はっきりしたものというのはつまり、百ゼロなんです。一切の苦しみはエゴなんです。つまり例外はないんです。自我意識、自己愛着――これが百パーセント苦しみの原因なんです。そうじゃないのはないんです。何度も言うけどね。つまり誰かのせいっていうのはありえないんです。一切の自分の苦しみはエゴなんです。エゴ以外のものはありえないんだよ。すべてエゴなんです。
 で、一切の幸福の原因は慈悲なんです。これも例外はないんです。
 だからそこまでの教えというか、そこまでのことっていうのは実は、真実なんだけど、でもいきなりは分からない。ある程度修行している人でも、そういうのをパッと聞くと、「え? そうだったんですか?」ってなってしまう。ましてや修行してない人が、「苦しいんです……」って言ってるときに、「それ全部、自分のせいだから」って言われても(笑)、全く分からない。

◎あらゆる教えに浸透する考え方

 例えばこれは例として、知っている人もいるだろうけど、昔ここに通ってて、今はチベットの方に出家したCさんという人がいて、彼が、友人がね、癌か何かにかかってお見舞いに行ったと。そこでわたしが彼に教えた、ここでみんなにも教えている慈悲の瞑想ね、トンレンってやつですね。苦しみを吸い取って、幸福を吐き出すと。――あれはね、実はチベットでは病気治療にも使われていて、不思議なことにね、不思議なことに、あれをやると病気も治ってくるんです。つまりエゴをあれによって治療して、それによって精神的にも安らぐし、で、心が起こしている肉体的な病気みたいなものも和らいでいくっていうことが言われてるんだね。あれもだから心の訓練の教えなんだけど。
 そのCさんが、友人が癌だったので、それを教えたんだって。「これをやれば、病気は治るか分からないけど回復に向かうだろうし、何よりも精神的に非常に安らぐからやってみなさい」って言って、「今自分は癌だけど、世界中の癌で苦しんでいる人の苦しみは全部自分に来いと。で、自分が安らかになれるようなカルマがあるんだったら、それはみんなに行って下さいと――こういうふうにやってください」って言ったら、その人が、「何てこと言うんだ、あなたは!」と(笑)。「わたしはこんなに苦しいのに、みんなの苦しみを吸い取れとか言って、あなたは鬼か!」って言われたっていう(笑)。
 つまり、普通、理解できないんです。普通に苦しんでいる人に、こういう教えを持っていっても、やっぱり分からない。やっぱり最初は、「ああ、あなた苦しいですね。カルマの法則がありますよ」とかね、「まず徳を積みましょうね」とか、あるいは「こう考えましょうね」とか、分かりやすいところから入るしかなくて。だからこの系統の教えが秘儀とされていたのも、まあ、ある意味しょうがないのかなと(笑)。
 で、さっきも言ったように、ここでは最初からそういうのをバンバンやってるから、こういうのが出てきても、「ああ、そうなんですか」ってなるかもしれないけどね。それははっきり言って、みなさんのカルマがいいんです。そういう教えを最初から学べるのはね。
 だからもう一回言うけども、この教えは非常に体系的なものとして伝えられているんだけど、でも実際はあらゆる教えに浸透してる考え方であって、みなさんにとっては真新しくはないかもしれない。でも改めて学ぶことで、みなさんの中でより実践的にね、これが使えるようになるといいなと思います。

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