「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第14回(1)
2012年6月10日
解説「スートラ・サムッチャヤ」第14回
◎道の教えと結果の教え
はい、今日は『スートラ・サムッチャヤ』の続きですね。もう一回ちょっと、大まかに言うとね、この『スートラ・サムッチャヤ』というのは、『入菩提行論』で有名なシャーンティデーヴァね、シャーンティデーヴァの作品ですが、『入菩提行論』自体はシャーンティデーヴァの書き下ろしですけども、この『スートラ・サムッチャヤ』は、現存のさまざまな経典のポイントを集めて、まあ仏教というかな、その菩薩道の全体像をまとめた経典ですね。
で、この『スートラ・サムッチャヤ』っていうのは――ま、というよりもシャーンティデーヴァの作品の素晴らしさっていうのは、まず非常に実践的なんだね。実践的で分かりやすい。つまりその、特に仏教の経典というと、ちょっとこう、なんていうかな、無駄に分かり難かったりね、無駄にちょっとこう――無駄にって今言ってるのは、ほんとはかみ砕けば「なんだ、そのことか」みたいな簡単なことでも、なんか無駄にこう難しくしてるようなところがある。あるいは表現力が足りないのかもしれないけども。そういう経典とか論書が多いわけですが、このシャーンティデーヴァ系の経典っていうのは、非常に分かりやすく、かつ芯を突いているっていうかな。その実践面において、芯を突いた表現が非常に多いんですね。
で、この『スートラ・サムッチャヤ』も、まあほとんどはそういう流れできてるわけですけども、この一番最後の「如来の真実」っていうパートだけは、ここだけはちょっと違います。ここはその、まあはっきり言って分かりにくい。分かりにくいって言うよりは、実際はこれは分かる必要はないパートなんだね。だから勉強会と言いながら、分かる必要はないっていう話になっちゃうのはちょっと変なんですけども、でもそうなんです。
ここは、そうですね……つまりもう一回言うとね、シャーンティデーヴァの教えっていうのは、そうですね、非常に分かりやすい、「道の教え」なんだね、ほとんどね。道の教えっていうのは、宇宙がどうなってるかとか、あるいは、われわれが悟り得た真実がなんなのか、っていうのは、まあちょっとどうでもいい。じゃなくて、一体何をすればいいのかっていう話なんだね。何をすればいいのかっていうのが、あるいは現実的にいろんな問題にぶち当たったときにどう考えればいいのかっていうのが、非常に細かく、そして実践的に説かれているのが、『入菩提行論』をはじめとした、シャーンティデーヴァの素晴らしい教えの特徴なんですが――もう一回言いますが、この最後の「如来の真実」のパートだけは、これは「結果の教え」です。結果の教えっていうのは、最終的にわれわれが到達する、そしてわれわれが今崇めている如来という存在が、どういう存在なのかっていう結果の教えなんだね。
で、これに関しては、まあ逆に言うとここも素晴らしいんですが、何が素晴らしいかっていうと、はっきり言ってこれ多分、読んだだけではわけが分かりません。で、わけが分かんなくて当然なんだね。如来だから(笑)。如来っていうのはつまり――如来ってバガヴァーンね。バガヴァーンっていうのはヒンドゥー教では、クリシュナとかラーマとか、ああいう至高者のことをバガヴァーンって言いますが、仏教では如来のことをバガヴァーンと言います。で、このバガヴァーンというのは、われわれの人智を超えた存在なので、本来説明できたらおかしいんだね。だから、ちょっと言葉にするとまあ矛盾するような、あるいは何を言ってるのか分かんないような表現になるしかないっていうかな。まあそれが、前回から続いてる、この「如来の真実」のパートですね。
◎究極的な世界
【本文】
同じくガンダヴューハ・スートラには、こう説かれている。
「そのときスダーナは、サマンタバドラの身体の相を見た。サマンタバドラの身体の各々から、一つ一つを開示し、身体の一つ一つの部分から一つ一つを開示し、身体の一つ一つから一つ一つの体を開示し、一つ一つの毛穴から教えを開示した。
そしてこの三千大千世界は風の集積、水の集積、火の集積であり、また大海の集積、島の集積、河の集積、宝の山の集積、スメール山の集積、鉄囲山(てっちせん)の集積からなり、村、城、集落、国土、家、大衆、地獄、動物の集積、阿修羅界の集積、ナーガの世界の集積、ガルーダ界の集積、人間界の集積、天界の集積、梵天界の集積、欲界の集積、色界の集積、無色界の集積、土地、施設、形あるもの、雲、雷光、星、昼夜、半月、満月、季節、年、カルパの集積のヴィジョンを見る。あらゆる東方世界のすべてを見る。あらゆる世界をこのように見る。すなわち東方、南方、西方、北方、東北の世界、東南世界、西南世界、西北世界、天底、天頂のあらゆる方角の一切世界にブッダが出現し、菩薩の一族が取り巻くヴィジョンを見るであろう。
このサハー世界に無始の過去より一つ一つの世界のすべてに相続してあらわれ、あらゆる素晴らしい菩薩、偉大なる魂の一人一人にブッダが出現する。ブッダは菩薩の一族を率いて、衆生の集積、家の集積、カルパの集積を見るであろう。
このように限りない後の世に至るまで、すべての広大な仏国土を見るであろう。
そのように無始の過去より限りない後の世に至るまでの世界の一つ一つに相続して、一切のブッダの広大さを見るであろう。
このように十方のあらゆる世界に、無始より限りない後の世に至るまで、一つ一つに相続して、サマンタバドラの体から生ずる広大な一つ一つの相を一つ一つの毛穴から観察し、相互に混乱することなく見るであろう。
サマンタバドラはまた世尊マハーヴァイローチャナ如来の御前の座に、東方蓮華吉祥世界賢吉祥如来が神通遊戯して座して教示しているのを見た。
かくの如く、あらゆる方角のすべての世界のすべての如来の御足の前に、サマンタバドラが神通遊戯して現われるのを見た。
このように、あらゆる方角のすべての仏国土の極微の原子の各々のブッダの周辺の広大な法に、サマンタバドラがすべての如来の御足の前に神通遊戯して現われるのを見た。
その一つ一つの身体から、過去・現在・未来に出現したすべての対象のあらわれのあり方を識別して現われるのを見た。」
はい。くり返しますが、こういったものっていうのは、なんていうかな、結果の――つまりわれわれが実際に悟り得たときの話なので、あまり今論理的にこれを考える必要はないです。逆に論理的にこれを理解しようとすると、失敗するというか間違えてしまうので――まあちょっとくり返しになりますが、さっきも言ったように、ここまでのシャーンティデーヴァの教えというのは、まあ、なんていうかな、導き、道しるべとなる教えだったわけだけど、ここのパートに関しては、この間も言いましたけど、前方的な道しるべにはならない。しかし後方的な道しるべにはなる。どういう意味かっていうと、前方的な、つまり、この教えを学んでこれを道しるべとして進んでいくっていう教えではないんだね、これはね。でも後方的な道しるべになるっていうのは、悟ったときに分かります。悟ったときに、あるいはわれわれが実際に瞑想でサマーディで如来の真実を見たときに、この経典を振り返ってみると、「あ、こういうことか」「あ、これを言っていたのか」って分かる話だね。だからこれは、もう一回言うけど、深くこのパートは考える必要はありません。でも、教学において、よく分かんなくてもいいから日々読んだらいいですね。これはあの、カイラスで出してる『菩薩道の真髄』っていう本の中に収められているので、まあだからここのパートだけじゃなくて全体を教学する中で、まあこれはこれで、分かんなくてもかまわないので、バーッと読んでいったらいい。それによって皆さんとこの究極的な世界との、まあ、縁ができるっていうかな。そこへのちょっと足がかりみたいなものができると思います。