「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(5)
◎喜の世界
はい。次、三番目に、喜、喜びという実践があります。この喜、喜びっていうのは、いつも言うように、周りの衆生が進化することを喜ぶんですね。
これはそうだな――二つの方向性から言えると思う。一つは今言った、慈悲の延長上ね。これは何回か言っているけどさ、ここで引っかかりになってくるのが阿修羅の心ね。つまり皆さん、今回合宿で結構、逆転のアーサナ二時間もやっちゃったから(笑)、みんな喉が詰まった人が多かったけど。喉の、まあクンダリニーヨーガ的にいうと喉の詰まりである、他者に対する闘争心や嫉妬心、批判心といったものね。これがわれわれの邪魔になってくる。
で、これがだから面白い話なんだけどさ、いつも言うように人間っていうのは面白いもので、つまりなぜ愛よりも慈悲の方が上なのか。当然愛っていうのはベースだからね。そこからさらに、みんなの苦悩を哀れみ、実際に自分がそのために修行するぞ、とかね。みんなのために自分の時間やパワーを使って、あるいはお布施してね――みんなのためにっていうのは、ただ単純に「みんな愛してます!」っていうよりは大変ですよね。で、さらにその上に「喜」、つまりみんなの修行の進歩を願うのがなんで大変なのかっていうと、そんだけ人間の心って些末なもんなんです。人間の心っていうのは非常に、ちょっとなんていうかな、狭いっていうかな。うん。
何回も言っているけど、例えばY君が誰かを修行の道に導いて――例えばそれは五、六人かもしれない。五、六人導いて、「さあ頑張れよ!」と。「おまえ、蓮華座ちゃんと組まないと駄目だぞ」とかね(笑)。「勉強会に来い」とかいろいろ言って、こうやっているうちにだんだんだんだん、みんなが修行に目覚めてきて、どんどんどんどんこう進んでって、例えば周りの評価も高くなると。例えばわたしも、例えば褒めるとするよ。「Y君の連れてきたあの五人はすごいね」と。「ああ、こういうところもすごいね」と。「あ、こういうところもすごいね」と。「Y君も頑張んないと」みたいな感じになってくると(笑)。
(一同笑)
そうなってくるとね、やっぱり嫉妬心が出てくるんだね。うん。つまりこれも変でしょ? 変っていうのはつまり、わたしはその五人の――この場合ね、五人が仏陀になることを願っているわけだね。『入菩提行論』にもあるように。「さあ頑張れ、頑張れ!」と。「おまえら早く解脱しろ!」と。それなのに、このどんぐりの背比べみたいな、まだね。お互いにまだまだ仏陀から見たら低い境地で、自分よりちょっと――仮にですよ。実際には人っていろんな要素があるから。例えばAさんっていう人が、Aさんのある部分がY君より上に見えても、別の部分はY君の方が上かもしれないよね。だから人の評価っていうか比較って難しいんだけど。でも嫉妬心があると、なんかそれがすべてに見えてしまう。なんか、ちょっとでも自分より上の者を見つけたりすると、強烈に嫉妬心が出る。
で、この嫉妬心を別の言い方をすると、引き下げる心です。嫉妬心って言うとあいまいなんだけど。つまり、「おまえ、もうちょっと引き下がれ」と。ね(笑)。「おれより上行くな」と。これが非常に矛盾しているんだね。
もう一回言うけど、その相手のジャンプアップをね、向上を願ってたのは自分じゃないかと。自分が願ってたくせに、本当に向上して自分を越そうとすると、引き下げようとする。これが、なんというか、些末な心なんだね。
だから逆にシャーンティデーヴァとか、つまり菩薩道を分かっている人は、より逆に極端な生き方をすると。つまり、まあ前も言ったマンジュシュリーの救済みたいな感じで、「ああ、どうぞどうぞ」と。「わたしはあなた方の」――いいですか――「踏み台になりましょう」と。あるいは「縁の下の力持ちになりますから」と。「わたしがそのためにこの人生を使えるならば、それは本望だ」と。わたしが生きたこの五十年、六十年の中で、多くの人がわたしを追い越していったとしたら、それはすごいことだよね。だって自分だって修行してるんですよ。自分だって修行してるっていうことは、自分だってもちろん進歩しているわけだよ。自分の導いた人がそれより進歩したとしたら、救済者としては本望でしょ。これ以上の喜びはないというか。
『入菩提行論』っていうのはいつも言うけど、素晴らしい言葉がいっぱいあるわけだけど、例えばその一つでこういうのあるよね。ちょっと正確には忘れちゃったけど、「わたしは世界の衆生に奉仕する」と。「世の人々の群れは……」――あ、「世界の衆生の幸せのために奉仕する」と。「世の人々は、わたしの頭に足を置け」と。「わたしを害せ」と。で、「世界の主は、満足したまえ」って書いてある。
これはさ、一見ね、一見っていうか、まあ一面は、自分の中のエゴを滅するような言葉にも見える。つまり「わたしのエゴはもういらないから、みんなわたしを害していいですよ」と。「わたしの頭に足を置いていいですよ」と。「わたしのエゴは全部、みんなに捧げましたから」――まあ、これもあると思う。でも、もうちょっと深い意味があると思うんだね。それは今言ったのとつながることで。つまり「わたしの頭に足を置け」っていうのは、単純に自分を謙虚に見て、「わたしはもうみんなの中で全然駄目な者でいいから」っていうエゴの滅却だけをねらっているんじゃなくて、「本当にわたしをステップにしてください」と。「わたしをステップにしてどんどん上に上がってください」と。こういうその、なんていうかな、文殊菩薩的なっていうか、救済の意志みたいのを感じられるね。
あと「害せ」っていうのも同じで、ただ「害せ」だとちょっと変でしょ。「ただわたしを害せ」っていうのはさ、なんていうか、エゴの滅却っていう意味ではいいかもしんないよ。でも害した方は悪業になるよね、単純にね(笑)。そうじゃなくて、こっち側から見ると、まるでわたしがマイナスのことを受けているように見える。しかし、それで相手の修行が進むんだったら、あるいは相手の幸せになるんだったら「どうぞどうぞ」と。だから、そういうちょっと一歩進んだ理解をするとそういう感じになる。
だから、もう一回言うよ。わたしはみんなの幸福を願っている。で、そこにおいて自分との比較はもう関係ないと。もちろん自分は自分で頑張るけども――あのさ、もう一回ちょっと分かりやすく言うよ。例えばY君がいるとして、五人の人を導いたとして、その五人の人が――自分も頑張ってますよね。自分も頑張っている。で、五人の人がどれだけ修行を進むことを願うのか。もちろんできるだけ進むことを願うよね。できるだけ進むことっていうのは、例えば目盛りがあるとしたら、例えば一年間で十進むよりは、やっぱ二十は進んでほしいし、もし可能なんだったら二十より三十進んでほしい。これ当たり前の話ですよね。で、自分は自分としてあるわけです。自分は自分として十、二十、三十ってあるよね。例えばY君が、その人に五十進んでほしい――例えばその人のカルマが今三十だとして、「いや、もっと頑張って五十まで進んでほしい」と思ったとするね。でも自分は四十までしか進まなかったとして、でも彼は五十まで進んでほしいって願い自体はもともとは純粋なものであってね、あるわけですよね。これはだから、自分の今の状態とは関係がないというか。自分は自分で、それとはちょっと切り離した感じで頑張ればいいだけであって。それとは全く別の話で、もしこの人が――いいですか?――例えば自分は四十までいったと。で、この人は二十から――そうだな、「おまえ今二十だけど三十までいけ!」って励ましていたのが、三十じゃなくて六十ぐらいまでいったとするよ。自分は五十だと。彼は三十じゃなくて六十までいったと。
もう一回言いますよ。二十だったはずのやつを「三十まで頑張れ!」って言ってたのが、六十までいったらどうですか? 倍の喜びでしょ、普通考えたら。「うわあ! マジ!?」と(笑)。
(一同笑)
「こんな嬉しいことがあっていいの?」と。ね。「おまえは三十までいってくれると思ってたけど、六十もいったの?」と。「ありえねえ!」と(笑)。
(一同笑)
「もう、世界が終わるくらいの喜びだ」と。自分は五十なんだけどね(笑)。でもそれくらいの素直なっていうかな、自分を勘定に入れない周りへのそういうのがあっていいんだね。
で、これを例えば客観的に見た場合、まさに今の話で言ったらね、Y君が踏み台になったように見える。踏み台っていうのは、つまりY君自体はあんまりまだ進んでいないと。しかしみんなはY君と出会ったことによって、Y君にいろいろ――まあ例えば客観的に見ればですよ、Y君はあまりその、なんていうかな、みんなの面倒を見過ぎてて、自分の修行に割けなかった分もあったかもしれない。それによって周りの方が進んだっていうそういうシチュエーションがあったとする。この場合、Y君が踏み台になったような感じがするよね。それが、変な話なんだけどね、菩薩としては喜びなんです。その方がいいぐらいな話です。逆に言うとね。うん。それくらいの発想がなきゃいけない。
で、それができると、この三番目の世界、つまり喜の世界、喜びの世界に本当に入れるんですね。本当に――何度も言うけども、「わたしは個人的には何度も何度も繰り返し自分を高める修行をしています!」と。これはこれでもちろんしているわけだけども、それ以上にみんなの幸福を願うと。で、それはなかなか、みんなが救われるっていうのは難しい話だけども、難しいけども自分のできる全精力を傾けて手助けしたいと。で、それが達成されたとしたら、これ以上の喜びはないと。何度も同じこと言っているけどね。自分より下だった者が自分を越すぐらいになったとしたら、もう喜びの極みであると。これくらいの、素直なっていうかな、率直な、その慈悲の先にある喜びってのがあるんだね。
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