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「自他の平等視」

【本文】

 以上のべた仕方などによって、「現世から遠く離れること」の功徳を修習して、雑念を止め、菩提心を修習すべきである。

【解説】

 これまでに述べてきたような内容によって、現世を捨てる修習をするわけですが、それは何も利己的に、わずらわしいものから離れて自分だけ救われようとしているわけではありません。あくまでも大きな目的は、菩提心、慈悲、つまりいかに衆生を救おうか、救える菩薩になるか、ということにあります。
 そのための手段として、まずは自分の中の、現世に対する錯覚を取り除いておかなければならないのです。
 日本の大乗仏教は、一つの宗派が一つのパターンの教えを伝えるというようなところがありますが、インドやチベットの大乗仏教は、大乗といってもまずは原始仏教的な「現世の捨断」的な教えから入り、それを土台としてその上に慈悲や空性といった大乗の諸要素を総合的に学んでいくようなところがあります。大前提として、現世を捨てる心がまずなければ、本当の意味で空や菩提心の世界には入れないということです。
 といってももちろん、現世放棄の心が完全に身につくには時間がかかりますから、実際は平行して進められていくわけですが、それでもある程度の現世放棄の理解と心構えは必要でしょうね。そして空性の悟り、菩提心、現世放棄、これらにそれぞれ励むことにより、一つが他の進歩を補うような形で、相乗的に進んでいくことでしょう。
 

【本文】

 はじめに深く注意して、次のように他者と自分との平等性を観察せよ。
 すなわち、全ての人は、われと等しい苦楽を持つ。彼らは私と同様に守られねばならぬ。

 あたかもこの身体が手や足などの区分によって多くの部分からなるにも関わらず、一体として保護されねばならないように、この全世界も雑多の人々からなりながら、全て苦楽を共にする点において、全く前者に等しい。

 たとえ私の苦しみは他人に悩みを起こさしめないにしても、私の苦しみは、やはり自我愛のゆえに、私にとっては忍びがたい苦しみである。
 
 同様に、他人の苦しみは私自身に知覚せられないとはいえ、やはりそれは、自我愛のゆえに、彼にとって忍びがたい苦しみである。

 私は他人の苦しみを滅ぼさねばならない。それは私自身の苦しみのように苦しみであるから。私は他人を哀れまねばならぬ。自己が生ける者であるように、彼らも生ける者であるから。

 私も他人も等しく安楽を好んでいる。それなのに、どんな特権があって、安楽に対する努力を私にだけ向けるのであるか。

 私も他人も危険と苦しみを好まない。しかるに、どんな特権があって、己の分はこれを防ぎ、他人の分は防がないのか。

【解説】

 さあそしていよいよ、菩提心の教えの検討に入っていきますね。

 そのまず第一は、自分と他人の平等視についての教えが、さまざまな角度から検討されていきます。

 他者が理解してくれなくても、自分の苦しみは自分にとっては大変な苦しみです。
 同様に、自分が感じることができなくても、他者の苦しみはその人にとっては大変な苦しみなのです。
 だから自分とか他者とか区別をすることなく、この世界の苦しみ自体をすべて滅尽しなければならないのです。

 すばらしい教えですね。

 このシンプルな教えをすんなり理解できればそれでいいのですが、なかなかこれだけでは心は納得しないので、より深い検討へと入っていきます。
 

【本文】

 他人の苦しみは私を悩まさないからそれを防がないというなら、未来に受けるべき身の苦しみは、私を全く悩まさない。それなのに、なぜそれを防ぐのか。

 それは、現在の私と全く同一である--というのは、誤った妄分別である。なぜなら、死せる者と、生じる者とは、それぞれ別のものであるから。

【解説】

 さあ、ここからは、さまざまな角度から、自己と他者を平等視することの正当性が追求されていて、面白いですね。

 まず最初のこの部分は、非常に深い意味があると思いますね。

 私達は、当然、未来の自分のために、未来の自分が幸福になり、不幸を避けるように、努力します。

 しかしここでは、「未来の自分」と「今、周りにいる他者」は同じだと言っているのです。

 ここで、『「今の自分」と「未来の自分」は違う。なぜなら、瞬間瞬間、「自分」を構成する要素は移り変わっているから・・・』というオーソドックスな解説を展開させることもできますが、それは皆さんに思索してもらうこととして、ここではまた違う角度から解説してみたいと思います。

 まず、カルマの法則から言うならば、「今、周りにいる他者」に対して行う行為が、そっくりそのまま、「未来の自分」に返ってきます。だから、「未来の自分」の幸福を願うなら、「今、周りにいる他者」を幸福にすべきなのです。そういう意味で、自己と他者は平等であるともいえます。

 また、もう少し視野を広げて、カルマや縁の問題を検討してみますと、実際、縁によって自分の周りにいる人たちというのは、「過去の自分」「未来の自分」「現在の自分」のいずれかと同じ要素を強く持っている人たちばかりなのです。その同じ要素の中で、カルマのやり取りをしているのですから。
 もっと視野を広げるなら、今、縁がないように見える人でも、実際は無数の輪廻の中で、何らかの縁を持ったことがあるだろうし、これからも持つでしょう。ということは、この宇宙の全ての衆生が、「過去の自分」「未来の自分」「現在の自分」といった要素を持つ存在なのです。
 だから、「未来の自分」に心を配るのと同様に、他の魂にも心を配るべきなのです。

 この辺は言葉に表しにくい部分でもありますが、結局、自分と他人に区別はないというのは、真実なんですね。それは概念的なものではなくて、すべては「自分の世界」なので、「他者」と錯覚しているその対象を苦しめることは、イコール自分を苦しめることにつながるのです。彼らを幸せにすることは、自分を幸せにすることなのです。この秘密に、早く気付かなくてはなりません。

 さあ、そしてまた別の角度からの検討が、この後も続いていきます。

【本文】

 もしも、いかなる苦しみでも、それを感受する者がまさに防ぐべきである--と考えるなら、足の苦しみは手の苦しみでないのに、なぜ足の苦しみが手で防がれるか。

 それは不合理だけれども、自我意識から起こる事である--というなら、自己のものでも他のものでも、不合理は極力除かれねばならない(すなわち、自己と他者は別であるという見解も除かれねばならない)。

【解説】

 本来、実質的な意味でも、カルマ的な意味でも、この宇宙の衆生は、一つであって、かつ多です。同一であると同時に、多様性がある。それはちょうどこの身体のようなものです。

 身体は、大雑把な意味では、各パーツの集まりに過ぎません。骨がそれぞれ関節にはめ込まれて組み立てられ、筋肉が腱でつながれ、中に内臓が配置され・・・といった感じですね。もっと微細に言えば、身体も細かい原子の集まりに過ぎず、大きな単一の物体ではありえません。そのような多くのパーツや原子の集まりに過ぎないのに、「身体」という一つの概念でくくられ、それを我々は「私」と呼んでいるわけです。

 この大きな「私の身体」というあいまいな概念で結ばれた手や足、骨や肉、そしておのおのの原子は、苦楽をともにします。足が危険に襲われたとき、手で防ぎます。それが器用さを特性とする手の役割だからです。「俺は手だから、足の危険なんて知ったこっちゃない」なんては思いません(笑)。

 この宇宙の衆生も本来は同じようなものだということですね。自分が他の幸福のためにできることがあったら、それはやらなければいけない。しかし我々は無智に覆われ、「この部分だけが私である」「私だけが幸福であればいい」という自我意識を、あまりにも永い間持ち続けてきたために、この「全てが一つであると同時に多様性がある」という衆生の真実を忘れてしまっているのではないかと思います。

 もちろん、「全ては一つである」と口で言うだけでは駄目です。そのような悟りっぽい感覚に浸るだけでは、逆にそれはマイナスです。そうではなく、この論書に書かれているようなさまざまな方法で、実際に自我意識を弱めていく実践を行ない、全てが一つであると同時に多様性があるという真実を、実際に悟らなければなりません。

【本文】

 (現在の瞬間と次の瞬間の間の)個体の相続、および一個の身体などとして認識される「部分の集合」は、仮想のものである。あたかも、行列や軍隊などがそうであるように。かようなわけで、それに苦しみの属する主体は存在しない。それは誰のものでありえようか。

 一切の苦しみは、いずれも差別なく主体のないものである。それらはまさに苦しみであるがゆえに、避けられなければならない。なぜそこで(自他という)制限を設ける必要があるか。

 なぜ苦しみは避けられねばならないかといわば--その点に関しては万人に異論がないからである。もし避けられるべきならば、全ての苦しみが避けられるべきである。もし避けるべきでなければ、他の全てと同様に、自我の苦しみも(避けてはいけないということになる)。

【解説】

 ①固体の相続--これを「行列」という言葉でたとえていますが、私は現代ではこれは「映画のフィルム」でたとえたほうがわかりやすいような気がします。
 映画のフィルムというのは、もちろん、一コマ一コマ、違う静止画像があって、それがすごいスピードで連続で流れていくことによって、一つの流れを持つ映像に見えるわけですね。
 たとえばただ黙って座っている男のシーンがあったとします。それは普通に男がそこに存在して、何も動かずに座っているだけのように見えますが、実は微妙に違う一コマ一コマの連続の映像なわけです。 
 同様に、我々の世界も、我々自身も、カルマ的にも、物質的にも、精神的にも、一瞬一瞬、移り変わっているのです。物質的な意味では、我々の感知し得ない世界で、常に激しい原子の運動が繰り返されています。心の無常性は誰もが知るところでしょう。そしてカルマ的には、カルマによって現われるこの一瞬の世界と、次の一瞬の世界は、実は全く違うのです。しかし似た部分を多く含む場合が多いゆえに、一つの実体が永続しているように見えるのですが、実は永続して存在している実体はないのです。

 ②部分の集合--これは上述のように、この身体一つとっても、確固たる単一の実体があるわけではなく、多くの部分が集まったものをなんとなく「私の身体」と呼んでいるだけだということですね。
 昔、小学校の国語の教科書で、スイミーという物語があったように記憶しています。小さな魚の群れが、大きな魚に勝つために、群れで固まって、一匹の大きな魚のような姿を作り出し、敵を追い払うような話ですね。これなんかまさにそうですが、本当はそんな一匹の大きな魚なんかどこにもいないのに、敵はその小魚の群れに大魚の幻影を見てしまい、恐怖して逃げていくわけです。
 同様に、我々も、部分の集合に過ぎないこの身体に、単一の存在の幻影を見て、実体視してしまうんですね。
 実際はそれは身体だけではなく、感覚の経験、無数の心のイメージ、過去の経験の記憶、そしてそこから生じる識別作用--これらを五蘊といいますが--これら一つ一つもとらえどころがなく、実体がないものですが、その実体のないものの集まりを、なぜかあいまいに実体視し、「私」と呼んでいるわけです。

 このように、瞬間瞬間移り変わるゆえに実体がないし、しかも、その瞬間だけを見て取っても、さまざまな要素の集まりをあいまいに「私」といっているだけのもの。そのあいまいな「私」という感覚であらわされる現象が、瞬間瞬間、形を変えている--これが「私」の正体ですね。だから当然、「私の苦しみ」といった場合も、全く実体がないのです。多くの部分からなるものが、瞬間瞬間、移り変わっている。一体そこで生じる「苦しみ」というのは、誰の苦しみなんだ、ということですね。まったく主体性がないのです。誰が苦しんでいるのかという、その主体がどこにもいないのです。

 しかし、主体がないにも関わらず、我々は厳然と苦しみを経験しているわけです。ということは、もともと主体がないのだから、「私の苦しみは防ぎ、他の苦しみは防がない」という発想自体がナンセンスだということですね。主体がないのだから、「私の苦しみ」という認識も間違いだということです。ただそこには、「苦しみ」があるだけなのです。

 だから問題は、この「苦しみ」という現象を滅するのか、滅さないのか、ということですね。そして万人が、つまり全ての衆生の自我意識が、この苦しみを避けようと思っています。だから「苦しみ」は、取り除かれるべきなのです。私とかだれかれの苦しみではなく、まさにこの「苦しみ」というあいまいな現象自体が、滅されるべきなのです。それを感じている主体の設定があいまいなので、「私の苦しみを滅し、他の苦しみは滅さない」という発想自体が、ありえないということですね。滅するなら自他の区別なくすべての苦しみが滅されなければならないというわけです。

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