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ラーマクリシュナーナンダ(終)

◎激しい救済活動

 マドラスに住んでいた間中、ラーマクリシュナーナンダは猛烈に働き続けました。食事も最初の頃は自分で作り、礼拝や講義に明け暮れました。ときには財政状態がひどく悪化しましたが、彼はそれを誰にも言いませんでした。ある日のこと、僧院には、チャパティを揚げるためのギーが一滴もなくなりました。するとそこへ偶然、彼の生徒の一人がやってきて、少量のギーを彼に供養しました。
 あるときラーマクリシュナーナンダは、「生きるために必要なものを、どのようにして手に入れているのですか?」と聞かれて、こう答えました。
「何か必要なときには、いつも神がよこしてくださるのです。」
「もしどうしても助けなしでやっていけないなら、主ご自身にお願いすればよいではないか。どうして他の人に頼むのですか。」
 実際、上記の例だけではなく、ラーマクリシュナーナンダは何度も、この言葉通りのことを経験していました。たとえばある年のラーマクリシュナの誕生祭が近づいていたとき、祭典で貧しい人に配るための料理を用意するお金が全くありませんでした。困ったラーマクリシュナーナンダは、一晩中、ぶつぶつと神への祈りを唱えながら、僧院の中を歩き回りました。するとその翌朝、その頃ラーマクリシュナーナンダが出版した本を読んで感動したある王子から、多額の寄付が届いたのでした。

 ラーマクリシュナーナンダは、自分の肉体が欲していることには気を遣わず、彼個人が必要としているものには全く無頓着で、師ラーマクリシュナとヴェーダーンタの教えを広めることだけのために、猛烈に働きました。週の何日かは、日に数回講義をしました。そしてそれらのクラスはマドラス中に散らばっていたため、彼は長い時間をかけて一日中歩き回らなければなりませんでした。夜、僧院に帰る頃には疲れ切って、料理を作る力も残っていないので、パン一切れで夕食をすませることもありました。
 このような激しい努力をしつつも、彼には「自分がやっているのだ」という自尊心は全くありませんでした。彼はあるとき、こう言いました。

「もしペンに意識があれば、彼はこう言うでしょう。『わたしは何百通も手紙を書きました』と。しかし実際には何もしていないのです。ペンを握っている人が手紙を書いたのですから。
 そのように、わたしたちには意識があるので、自分たちがあらゆることをしていると思うのです。しかし本当は、ペンがわたしたちの手の中にあるように、わたしたちはより高い力(神)の手の中にある道具なのです。神がすべてのことをなさるのです。」

 多くの人々は、最初の宗教的情熱が過ぎると、一時的に心がさめてしまうことがあります。ラーマクリシュナーナンダのクラスの生徒たちにもその傾向があり、あるクラスでは、出席者が一人も来ない日もあるようになりました。しかしラーマクリシュナーナンダは、そのような日も、誰もいない空っぽの部屋の中で、いつものように講義をするのでした。人々が彼に、なぜそのようなことをするのかと尋ねると、ラーマクリシュナーナンダはこう答えました。
「わたしは人に教えるためにここへ来たのではありません。この仕事はわたしにとって誓いのようなものです。それでわたしのクラスに人が来る、来ないに関係なく、わたしはそれを果たしているのです。」

 ラーマクリシュナーナンダは、自分の理想に対して、妥協を許しませんでした。彼は師ラーマクリシュナの教え通りに、現世放棄の思想を高らかに説きましたが、若者たちがその教えに引きずられることを恐れた一部の人が、「そのような放棄の教えを説くことは、僧院に寄付している後援者たちの気に障るかもしれないからやめたほうがいい」ということをほのめかしました。するとラーマクリシュナーナンダは激怒して、次のように怒鳴りました。
「なんだと! わたしが師から学んだ以外のことを人々に教えるべきだとでもいうのか? もし師の教えを説くことで僧院が財政的に立ちゆかなくなったら、私は喜んで、誰か生徒の家のベランダにでも住まわせてもらうだろう。」

 やがてラーマクリシュナーナンダの仕事は、マドラス市内だけではなく、マドラス州全体、そして南インド全体にまで広がっていきました。
 あるとき彼はマイソールで、サンスクリット大学に集まった学者たちを前にして、サンスクリット語で素晴らしい講演を行いました。この講演の中で彼は、過去の様々な聖者たちによる聖典の様々な解釈を、師ラーマクリシュナがいかに調和させたかということを、雄弁に、堂々と説きました。これは彼の大胆さをあらわしていました。というのは、南インドは宗教的に大変保守的な地域であり、ここに集まったこの地の学者たちは、自分たちの伝統や解釈からわずかでもずれることを好まなかったからです。

 ラーマクリシュナーナンダは、雄弁な話し手というわけではありませんでした。彼は雄弁家のように美しい言葉を操ることはできませんでしたが、彼の誠実さと、真理の完全な把握とが、彼のスピーチを非常に印象的なものにしました。彼は特に、講演よりも会話の中で教えるときに本領を発揮しました。それは、言葉にこもる誠実さ故に、直接相手の心に訴えたのでした。また彼は、どんなに難解な教義や哲学的問題でも、子供にもわかるような優しい言葉で語る能力を持っていました。

 ラーマクリシュナーナンダは、理想に対する厳しい意志と共に、人々に対するあふれるほどの愛を有していました。
 あるとき彼は、ある場所で、幼い子供数人を残して、一家全員が伝染病で死んでいるのを見ました。その子供たちの哀れな姿は、彼の慈悲深い心には耐え難く、彼はその子供たちを僧院に引き取り、世話を引き受けました。これが、後に発展したラーマクリシュナ・ミッションの教育活動の始まりになりました。

 教師としての彼は、烏合の衆的な大きなサークルを作ることよりも、真の修行者、真の信者を一人でも多く作ることに力を注ぎました。彼自身、厳しい修行者でしたが、彼は自分の影響下に入ってきた者は、ことごとく完全で、行動の細部に至るまで、他の人々の模範になるようでなければならない、と主張しました。
 あるとき、彼の講義の最中にほおづえをついて座っている生徒を見つけると、彼は言いました。
「そういう姿勢はいけない。それは陰気な態度だ。君は常に元気のいい態度を養わなければならない。」
 また、ときどき、僧院を訪れる軽率な訪問者が、僧院内で新聞を広げて読むことがありました。そういうとき、ラーマクリシュナーナンダはこう言って注意しました。
「新聞をしまいなさい。どこででも読めるでしょう。ここに来たときは、神様のことだけを考えるべきだよ。」

 南インドでの、自己の肉体を顧みない激しい救済活動の結果、ラーマクリシュナーナンダの体には、様々な病の兆候が見え始めました。しかし彼は強い精神を持って、肉体の叫びには耳を貸さず、肉体が完全にまいってしまうまで、働き続けました。
 ついに彼は重い病に倒れ、医者は結核だと診断しました。その知らせがカルカッタに届くと、仲間の僧たちは、最期の日々を自分たちと一緒にカルカッタで過ごしてほしいとラーマクリシュナーナンダに頼みました。ラーマクリシュナーナンダもそれが善いと思いましたが、厳格な彼は、僧院から正式な指示が届くまでは、マドラスを動きませんでした。
 
 カルカッタでは、病の床に伏しながらも、相変わらず、神についての高度な話を語り続けました。彼を愛する人たちが、体に障るからやめるように頼むと、ラーマクリシュナーナンダはこう言いました。
「なぜか主について話をするときには、全く苦しみがなくなり、わたしは肉体を忘れるのだ。」

 うわごとを言うときにも、彼の心は常に主のみに捧げられており、「ドゥルガー、ドゥルガー・・・・・・」「シヴァ、シヴァ・・・・・・」「ラーマクリシュナ、ラーマクリシュナ・・・・・・」などとつぶやくのでした。

 そして一九一一年八月二一日、自己を省みない過酷な奉仕と救済活動の末に、彼は四八歳で肉体を去り、最愛の師のもとへと旅立ったのでした。

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