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解説「母なる神」 第五回(2)

 ところで若干話がずれますが、先ほど「バクティヨーガの歌」を最初に歌いましたが、あの中で最後に「あとはただあなたにおまかせいたします」っていうのがあるね。われわれは例えば今の一節で言うと、自分のエゴの明け渡しを嘘偽りのないものにすると。――このエゴの明け渡しって言った場合、当然言葉としては抽象的なわけですけども。だからいつも、普段からエゴを明け渡すと。うん。
 あるいはまあ、そうですね、「バクティヨーガ・サーダナー」っていうのがありますけど、あの文章もとてもいい文章なので、ああいうのも読みながら、「自分を明け渡すっていったいどういうことなんだ?」と。「エゴの明け渡しとは一体何なんだ?」ということを普段考えながら、積極的にそのようにエゴを明け渡し、神の意志を取る。
 あるいは、なんていうかな、神への奉仕に生きることを普段からやんなきゃいけないんだけど、もう一つの受動的な意味では、まさにこの歌であったね、「すべてをおまかせいたします」と。この発想、この心構えを常に持たなきゃいけないんですね。
 で、ただここでちょっとひとつ付け加えておきたいのは、これはわたしの経験でもあるし、みんなを見ててもそうなんだけど、皆さんが例えばこういう教えを学んだり、歌を歌ったり、あるいはみなさんの中にいいカルマが目覚めてくると、そういう思いがぐーっと湧き起こり、それが燃え上がるときがある。例えば、「ああ、もうわたしはエゴはいりません」と。あるいは、「すべておまかせいたします」と。おまかせいたしますっていうのは、すべてを神の愛と見て――もちろん自分の意志っていうか、能動的には教えどおり生きるんですけども、それをやっている間に何が来ようと、わたしはそれを自分のエゴで良し悪しを決めないで――もう一回言うよ、能動的にやることは教えどおり生きるんですけども、そこで自然にやってくるいろんなことに関しては、「すべて神の愛として受け入れてエゴを出しません」と。「もう完全におまかせ致します」と。「そのようにしたい」と。あるいは「そのようにわたしを導いてください」と。「すべておまかせいたします」――みたいな気持ちがみなさんの中で燃え上がり始める。そうするとね、当然神はそれをお喜びになり、「ああ、そうか」と。
 で、実際にわれわれの前に、まあこれは二面性があるわけですけども――二面性というのは、まず、神が実際にそのようにわれわれに祝福を与えてくださるようになる。で、逆にわれわれ側も、まあつまり実際にその頭で思ったことがどれだけ真剣かにもよるんですけども、少なくともちょっとでも思うならば、ちょっと壁が開くわけですね。それまでガチガチにわれわれは自分を守ってきたんです。もう何度も何度も生まれ変わって自分を、まあつまり錯覚によってね、エゴを守ることが幸せなんだ、苦しみから自分を守る秘訣なんだって錯覚しちゃってるから、すごい壁でエゴを守ってきた。だからまさに、おまかせなんて無理なわけですね。おまかせどころか、普段からいつも不安を抱き、恐怖を抱き、期待を抱き、そして計画しまくると。ね(笑)。計画って、綿密な計画じゃなかったとしても、エゴの計画で満ちてるわけだね。エゴの計画をまさに人生のいろんなところに張りめぐらして、それによって自分をガチガチに守ってる。それをちょっとずつやめて、壁が開いてくる。で、神の側も祝福を与えるようになる。そうすると当然その人を―――いいですか――最も速やかに悟りに、あるいは神の世界に導くようなシステムが動き出すんですね。
 で、多くの場合――ここで多くの場合っていうのは、一○○パーセントじゃありません。――多くの場合、ここで失敗するんです。なぜ失敗するかっていうと、想像以上のものが来たりするから。でもこの想像以上っていうのは、別にそんなでもない。そんなでもないっていうのは、十を想像してたら一万が来たとかじゃないよ。まあ十を想像してたら五十が来たとか。その程度かもしれない。でもそれでもダメなんだね、われわれっていうのは。なんでかっていうと、まあそんだけまず心構えがなっていないというのと、それからね、心が弱い。うん。心が弱いし、心構えがなっていないし、それからもちろん教えが根付いてないとか、いろいろあるわけですね。
 だからこれはわたしからのアドバイスでもあるし、皆さんも経験あるでしょうけど、いいですか、まず発願として――発願っていろいろな発願があるよね。わたしも昔からいろんな発願したけども、今のもそうですよ、今のも例えば、「わたしはすべてを神の愛と見よう」と。「完全におまかせしよう」。これも発願だね。あるいは菩薩の発願として、「すべての苦悩よ、わたしに来てください」と。「わたしはわたしの喜びは全部みんなにあげます」と。「すべての苦悩、わたしに来てください」。これ、菩薩の発願ですね。で、こういった菩薩系の発願、あるいは神にすべてをおまかせしますっていうバクティ系の発願、まあこういうのいろいろあるわけですけど、そういう発願をすると、当然今言ったように本当に祝福がやってくる。だからここで、同時に現実的な準備もしてください。
 現実的な準備っていうのは、まあ言ってみれば今言ったことなんですけども、まずは心構えをしっかりする。つまり、本当に何が来ても、つまりムードやイメージで「さあおまかせします!」あるいは「さあ、苦悩よ全部こい!」ってイメージだけじゃなくて、本当に来てもいいように、あるいは本当にわたしは全部おまかせするんだと。つまり極論すれば、考えられる限りの最悪のことが起きようが全く問題ないというぐらいの心構えを持つということがひとつ。
 で、もうひとつは、心構えだけでは実際には駄目な場合があります。つまり現実的な心の強さ、あるいは意志の強さがないと駄目なんだね。だからここで忍辱の修行が必要になるわけだね。つまりシャーンティデーヴァも言っているように――「ハエや蚊や虻や熱さや寒さや、そのような小さな忍耐の機会をなぜ無用のものとして無視するのか」ってシャーンティデーヴァは言っている。つまり普段からいろんなところで自分の心を強くする。つまりこれはシヴァーナンダも言ってますけども、「精神世界、あるいは修行の道というのは、決して甘いバラ色の道ではない。茨の道である」と。だから強くないと駄目なんだね。
 前に、わたしなんかそういうことをネットで書いたら、ちょっと批判されたことがあって。「そんな強者の理論みたいなことを言われては」みたいな(笑)。だから最近ちょっとみんな弱っているんだね(笑)。弱ってるというか、スピリチュアルとかも非常になんかこう、「頑張んないでいいですよ」とかね。悪い意味でね、「ありのままでいい」とかいうのが多いけども、じゃなくて、ちょっと理想的にいうならば、これもなんかにもあったけども、心も体も意志も強くなきゃいけないんです。まあただ体に関してはいろんなカルマがあるだろうから二の次でいいけども、少なくとも心は強くなきゃいけない。で、何度も言ってるけど、弱かったら強くすればいいだけの話なんです。
 この中でも、弱いという人、いるかもしれない、心は。あるいはいろんな過去の経験でちょっと心が今萎えてるとかね。それはもちろんカルマだからしょうがない。でもそれはすべて無常ですから。あるいはわれわれの本質は強いから、われわれの本質は、堅固なヴァジュラのような意識がわれわれの心の本性にあるわけだから、だから今の状態が「あ、まだ弱いな」と思ったら、ちょっとずつでもいいから強くしていけばいいだけの話なんだね。
 で、その強くすることを日々行なって、そして心構えね。自分は、ね、「まがりなりにも、一度かもしれないが、そのような発願を持ったんだ」と。「その発願が嘘偽りのないように、何があっても心を動かさず、この素晴らしい誠実な思いを持ち続けるぞ」という心構えね。
 もう一つは教学のデータですね。これは皆さんにいつも言っている、しっかりと教学を繰り返してデータを心に入れると。つまり、まあわたし今何言ってるのかというと、現実的なことを言っているんです。現実的なことっていうのは、もう一回言うけども、皆さんが何となく、ほわほわと燃えてるときはいいんだけども、現実的に神の祝福がきたときに、なよなよとしちゃって(笑)、駄目になってしまう場合が多いんだね。つまりわけわかんなくなるんだね。余裕のあるときは理想に燃えてるんだけど。つまりそういう意味で言ったらちょっと経験不足っていうか、修行をなめてるみたいな感じなんだけど、修行をなめてるから、本当に自分のカルマを変革するような祝福が来たときに、つまり暴風雨みたいな感じになります。暴風雨みたいになってわけわかんなくなります。わけわかんなくて「うわー! うわー!」ってなって、パーって晴れたときに、まあ例えばグルとかがね、「おまえ何やってんだ」と(笑)。「どうしたんだ」と(笑)。「発願どうなったんだ?」って言っても、その弟子としてはもう呆然として、「こんなだとは思いませんでした」みたいな感じに(笑)、なってしまうんだね。
 でもそれはもう一回言うけども、別にそれは、さっき一○○パーセントじゃないよと言ったのは、別に全員がこうなる必要はないんです。単にこの人は――もう一回言うよ、心構え不足。そして教学不足。そして心を強めることをやってこなかったという不足なんだね。だからさっきの「バクティヨーガの歌」の最初の方にもあるけども、「苦しみに耐える強い心。そして教えに反するものを捨てる潔い心。これらを供物として懇願します」ってなってるよね。「あなたへの終わりなき愛をお与えください」と。つまりこれは供物っていうのはもちろん、それを捧げますという意味でもあるんですけども、まあ別な意味としては、それがないと駄目なんだね。つまり、もう一回言うよ――苦しみに耐える強い心。そして教えに反するものを捨てようという潔い心。それからもう一つそれ以前に、今言った、心が例えばいろんな悪いカルマが出たりいろんな苦しみに苛まれても常に教えを取れるぐらいに、教えが心に根付いてなきゃいけないんだね。
 つまりみなさんの性格とか習性っていうのは、完全にデータですからね。うん。例えば「こういうときにどうしても怒ってしまうんです」。これ、ただのデータです。つまりこういうときに怒るっていう情報が多いだけなんです。つまりそれに匹敵するくらい教えが入ってなきゃ駄目なんです。それに匹敵するくらい教えが入ってたら――みなさんも経験あるかもしれないけど、ある程度教えが入るとね、そうですね、なんか心にちょっとブレーキみたいなのがかかるようになります。こっから先に行けなくなるんだね。
 例えばだけどね、前だったらこれくらいの悪業も簡単にできてたんだけど、頭ではなんかできるような気がするんだけど――わたしも自分の経験でも、いろんな人を見てもそうだけど、例えば皆さんも経験あるかもしれない、ちょっとこう修行に躓いてね、やさぐれると。やさぐれるっていうか(笑)、ちょっと不良っぽくなると。「いいや今日は!」みたいな感じで(笑)。「いいや今日はもう修行なんて!」とか「教えなんて!」とか言って悪いことしようとするんだけど、たかが知れてるんだね(笑)。ある程度以上のことは、例えばその人が昔やってた悪とかね、まあ悪っていっても社会的な悪は別にして、修行の上では悪のことを、「もういいや! 修行なんて! 真理なんて!」って言ってやろうとしても、なんかちょっとストッパーがかかってしまう。「ウッ!」てなってしまう。これがまあ教えの力なんだね。
 だから皆さんが、教えが心にいっぱい根付いてれば根付いてるほど、それが皆さんの性格の一部を形成するようになるから。だからそれが一○○パーセントといわなくてもエゴと戦えるぐらいまで教えが根付いてないと、今言った本当の意味で祝福が来て自分が変革されるかどうかっていうときに、耐えられなくなっちゃうんですね。だからその準備。

 もう一回まとめますよ――心構え、そしてエゴと対抗できるぐらいの徹底的な教えの教学、そしてもう一つは現実的な意志の強さ。
 だから教学はまずね、いっぱい教学してください。まずはもうそれはやりゃあいいから。徹底的に日々教学すると。もう本当にね、こういうこと言うと、なんていうかな、ちょっと強制みたいで嫌ですけども、本当だったらもう寝ても覚めても教学するぐらいが一番いい。寝ても覚めてもいつも教学すると。あるいは例えばいつも、まあここでの勉強会でもいいし、あるいは朗読でもいいけども、教えのデータをもう徹底的に流し続ける。もう本当にデータ勝負ですからね、ひとつはね。みなさんがデータから解放されたら解脱だから、その境地はもちろん目指すんですけども、でもデータの世界にいるうちはやっぱりデータをきれいにしなきゃいけない。だから教えのデータで徹底的に自分を満たすと。はい。
 で、これはまあ、やりゃあいい話だから。やっぱり難しいのはちょっと抽象的な、心構えっていう話と、それから意志の強さですよね。
 心構えも本当はこれはだから能動的にやるしかないんですけども、日々一日のうち何回も思い出すといいね。思い出したりとか、決意を固めるっていうかな。
 で、意志の強さに関しては、これも能動的にというか、自分の意志によって、いろんな日々の場面場面を自分の心を強くする場面だと考えてね、訓練の場と考えたらいい。
 例えばさ、皆さんの中で、皆さんが生きてて、いろんな苦しい場面が生じたとするよ。これはつまり、二重または三重の意味で訓練になるわけですね。つまりその苦しいときに教えが入っていれば苦しくないはずだから。つまり、ああ、わたしはまだ教えが入っていないと。だからこれを教えによって考える訓練をしようと。
 で、二番目には今度は意志の力ね。つまり意志っていうのはさ、別の言い方すれば、教えとは関係ない。つまり教えが入っていようがなかろうが、もしもっとわたしが意志が強かったら、心が強かったら苦しくないはずだと。つまりこんなんで苦しいってことは、ちょっとこれはまだわたしの心が弱い証拠だと。だからこれに耐えて耐えることによって、意志の強化を図ろうと。まあ、というよりは、そのためにこのような苦しみは与えられたんだと考える。はい。
 そして三番目には心構えもそうですね。心構えを思い出して、「だってわたしは菩薩としてみんなの苦を背負うって決めてたはずじゃないか」と。「それなのにこんな小さな、例えば相手とのエゴのぶつかり合いで苦しんでるおれはなんなんだ」と。「心構えからいって駄目じゃないか」と。「わたしの発願をもう一回思い出そう」と。
 このように、ミニマムな意味で――ものすごい苦悩じゃなくてもね――ちょっとした日々の苦悩が生じたときに、この三つの――教えをしっかりと根付かせる。そして心構えをもう一度思い出す。そして心を鍛える訓練だと思って耐えると。この三つをしっかりと、まあなんていうかな、そのための練習を与えられているんだと思って、日々の小さなそういった引っ掛かりに耐えていったらいいね。
 で、それによって、本当の意味で自分を変革してくれるような神の祝福が来たときに、なんとかそれを乗り越えられるようにする。もちろん理想的には、軽々と楽々と乗り越えられるような状態を作っておいたらいい。

 はい。ちょっと話がずれましたが、じゃあまたね、ちょっとだけここを瞑想しましょうね。ここ、「自分のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。そのときに初めて、それ以外の一切が叶うことになるのだから。」っていうこの一節を、ちょっとだけ各自で心の中で――まあ心の中で反芻するだけでもいいし、それについて深く考えるでもいいので、少し瞑想しましょう。あるいは決意するとかでもいいしね。

(瞑想中)

 はい、では短いですが瞑想を終わって、次のところいきましょうね。

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