「煩悩を強く打ちのめせ」
【本文】
煩悩の打撃に対して、身を守れよ。そして煩悩を強く打ちのめせ。あたかも訓練せられた敵と、剣の戦いをなす場合のように。
その際、剣を取り落とすことがあれば、恐れてすぐにそれを取り上げるように、正念の剣を落とした場合には、地獄(の苦しみ)を思い起こして、すぐに取り上げよ。
【解説】
煩悩との戦いが、実際の剣の戦いにたとえられています。
煩悩が襲ってきたとき--それはあたかも、敵が剣で攻撃して来たようなものですから、何とかそれをかわしたり、あるいは正しい教えという盾によって、身を守らなければなりません。
そして戦いの最中に、剣を落としてしまったらどうしますか!?--リアルに考えてみてください。非常に強い敵と戦っている最中に、誤って自分の剣を落としてしまったのです。もちろん、急いでそれを取り上げるでしょう。
この剣とは、正念の比喩です。正念とは、何度も繰り返し出てきましたが、簡単にいえば、仏陀や、あるいは正しい教えというものを、常に心に保ち続けることです。それこそが、我々が煩悩の悪魔と戦うための武器なのです。
煩悩の悪魔は、非常に手強い敵です。だからその一撃に倒されて地獄に連れて行かれてしまうのを恐れて、正念の剣を落としたら速攻で取り上げなければなりません。
【本分】
毒が血液に加われば体に回ってしまうように、過失は、隙を得れば心に流れ込む。
【解説】
これも読んだとおりですね。わずかな傷であっても、そこから少しの毒が入っただけで、それが体中に回り、病気になったり死んでしまうこともあるかもしれません。同様に、ほんの少しの心の隙からも、煩悩という毒は心に流れ込み、菩薩としての生命を絶ってしまうかもしれないのです。だから慎重に、細心の注意を払って、心の隙から煩悩が入ってこないように注意するべきです。
【本文】
油のみなぎった鉢をささげ保っている者が、剣を手にした兵士に監督せられ、もし躓けば命を奪われることを恐れ、注意を集中するように、誓願を立てた者も、そのとおりにあるべきだ。
【解説】
これも良いたとえですね。
一瞬でも気を抜けば、油は鉢からこぼれてしまうように、一瞬でも気を抜けば、菩薩の誓いは心から忘れ去られ、心は悪しき思いに流されてしまいます。そうならないように、集中して自己観察を続けなければなりません。
【本文】
だから、ひざに蛇が這いよれば急いで立ち上がるように、惰眠と怠惰が生じたときには、同じく速やかに対抗すべきである。
【解説】
これも良いたとえですね。
ひざに蛇が這いよってきたのに気付いたら、ゆったりしている余裕はなく、瞬間的に、立ち上がって振り払うでしょう。
同様に、自分が惰眠や怠惰に襲われていると気付いたら、瞬間的に立ち上がり、意識を覚醒させる努力をするのです。
【本文】
道を踏み外した場合には、いちいちこれに強く心を悩まし、「再びかようなことが起こらないために、私はいかになすべきか」と熟考すべきである。
彼はすばらしき人々、あるいは師匠との交渉(支援)、あるいは彼らによって示された行為を探求するであろう。それによって、どうにかこれらの状態において、正念の反復が生じるようにと願うからである。
「不放逸に関する説法」を思い起こしつつ、作業に着手する前に準備を完了して、あらゆる場合に処しうるように、自身を軽快にすべきである。
綿くずが風の去来に従うように、精進の導くままに従うべきである。かようにして彼の神通力も増大する。
【解説】
修行において、誤って道を踏み外してしまうのは仕方のないことです。誰も完璧ではないのですから。しかしそこで必ず反省に立ち返り、二度とこのようなことが起こらない様にするためには、どうしたらいいかと、真剣に考えるべきです。といってももちろん、意味のない後悔はいけません。後悔で心を暗くするのではなく、論理的に対策を練って、真剣にそれを適用するのです。
そして菩薩は、自分の師匠や、法友とたびたび会い、修行の話をしたり、あるいは何らかの支援をしたり、あるいは彼らによって示された教えを探求し、何とかして自分に正念の反復の習性が根付くようにと、努力すべきです。
結局、精進なしには何事始まらないのです。精進によって全ては成し遂げられるでしょう。
『不放逸に関する説法』というのは、仏典などで、『不放逸』をテーマに説かれたものがいろいろあるわけですね。それらをしっかりと読み、思い起こし、なすべき事を常になし、軽快でおれ、ということです。
たとえば何か芸事や職人などの厳しい師匠の弟子になった場合、いつ師匠に何を命令されてもいいように、あらゆる準備をし、またいつでもすばやく動けるように、心身ともに軽快に保ち、準備をしているでしょう。
修行者も、同様にあれ、ということですね。どんなときでも、教えどおりに、衆生のために動けるように、なすべき事をなし、軽快な状態でいなければいけないのです。ぼやっと、まるで自分が世界の王であるかのような尊大な態度や心構えで、だらんとしていてはいけないのです。
『不放逸に関する説法』としては、この入菩提行論の第四章『菩提心の不放逸』や、あるいはこの第七章『精進の完成』自体を繰り返し読むのも、怠惰を打破するためには最適であると思います。