こころ
「私は二面性があるんですよ」と言う人がいるけれど、
二面性どころじゃない。数え切れないほどの面を、人間の心は持ち合わせている。
なぜなら我々が「心」と呼び、また「私」と呼んでいるこのこれは、単なる情報の含まれた粒の寄せ集めに過ぎないからなんだ。
その粒のある傾向の集合部分に意識がシフトしたとき、人は善人になるし、別の集合部分にシフトしたときは悪人になる。
でもそのどれも、本当の自分じゃないんだ。
我々が認識する表象的な心の海の奥に、潜在意識の海がある。しかしこの潜在意識もまた、本当の自分ではない。これもまた情報の粒の集まりに過ぎないんだね。
情報っていうのは、過去に経験したこと、または経験してないけど見たり聞いたりしたことの記憶だ。
だから心というのは、単なる記憶の集まりに過ぎないともいえるね。
これは他人についても同じだ。「あの人はいい人だ」とか「あの人は嫌なやつだ」と言うけど、それも正しくない。それも彼の中の情報の粒の集まりのある面をちょっと見てるに過ぎないからね。その人にはいい面も悪い面もあるだろう。そして自分とその人との縁、カルマ的条件によって、自分がその人のどの面を見、どう感じるかが決まってくるんだね。
だから自分の心も自分ではない。
自分が観ている他人の心も、本当のその人ではない。
また、他人が見る自分の心も、本当の自分を見ているわけではない。
よく「本当の自分」と表現される潜在意識も、単に表層意識より深いというだけであって、本当の自分ではない。
それらただの情報に過ぎない心のもっと奥に、それらを見ているだけの、純粋観照者と呼ばれる、本当の自分がいるんだね。
もちろん、しかしその前には、その偽りの心、情報の粒の集まりに過ぎない心の浄化から始まらなければいけない。汚れた考え方や思いを徹底的に浄化する。過去の経験への悪い思いを徹底的に整理する。
つまりね、経験そのものには善悪はない。その経験のとらえ方が汚れてるから、心が汚れるんだよ。
しかし過去のことについては、すでに間違ったとらえ方によって悪い心ができてしまっている部分がある。それはいろいろな修行で浄化しなきゃいけない。そして未来については、一切の経験において心を汚さず、逆にきれいな心をより磨くための条件としてとらえるんだ。
このようにして心の海を、きれいに、透明にしていく。
なぜか?
この心の海が透明になって初めて、その奥にある純粋観照者、真我を発見することができるからなんだ。
さて、話を戻すと、一般の場合、人間は、自分の潜在意識の汚れた欲求を隠すため、この世で善人として生きていく。それは少しずつ少しずつ偽善を重ねて、いつの間にか、もう、何が自分の潜在意識なのか、よくわからなくなってしまっている。重ねすぎてるんだね(笑)。もう、わけがわからないんだ。
ヨーガや仏教の修行を続けると、逆に、これらの偽りの心の積み重ねが、どんどんはがれていく。それによって、潜在意識の、もう少しハッキリした、自分の心の要素が現われてくるんだね。
だから本格的なヨーガや仏教の修行を続けるとね、ある時期、まるで煩悩が増えたように感じることがあるんだよ。修行してるのに、以前よりわがままになったり、欲求が強くなったように感じることがある。
しかしそれはそうじゃないんだね。表面の様々な汚れが取り除かれて、やっと本質的な汚れと清らかさが顔を出し始めたってことなんだ。それが本当の心の浄化のスタートなんだね。
だから単にいいお話の書いてある本とかを読んで、善人になった気持ちになっていてはいけない。修行して、自分の偽りの要素を吹き飛ばし、深い自分の心と対峙しろ。それは壮絶な戦いになるかもしれないし、何度も負けて、地をはいつくばうような泥臭い感じになるだろうけど、修行とはそういうものだ(笑)。
そのようにしてね、前述のように、過去の経験から来る心を浄化し、未来の経験において心を汚すことなく、心の海を透明にしていこう。
それによって最も幸せになるのは、その人自身だよ。その状態をサットヴァというんだ。サットヴァの心の状態になったとき、その人は平安で、生き生きとして、至福に満ち、智慧にあふれ、周りの人をも幸福にしてしまう輝きを放つことだろう。
まずはそういう状態を目指したいですね。そしてその奥に、解脱があります。
-
前の記事
慈悲喜捨 -
次の記事
「足るを知るアガスティヤ」