パトゥル・リンポチェの生涯と教え(62)
◎心の本性について
経験豊かな修行者にとって、静まった心は心であり、動く心も心である。
修行者がひとたび、心の空性を本当の意味で悟ったならば、
動く心と静まった心は、別のものではない。
何が起こっても、何が現われても、
それは空性である。
それは原初の智慧の遊戯。
勝者たちの深淵なる理解。
作り上げることなく、飾ることなく、ただありのままであれ。
思考が発生するたびに、自然に、自発的に、思考は解放される。
これそのものがサマーディ。
これがダルマカーヤ。
これが、ありのままに生じる原初の智慧。
これがマハームドラー。
そしてこれが、智慧の超越的完成。
ちょうど、火で焼かれた縄が何も縛ることができないように、
想念はもはや、何をも縛ることはない。
その本性は空。
「思考」として現われるものは、空性の輝きなのだ。
思考と空性の間には違いがないゆえに、
偉大なるウギェンはこう言った。
「思考の本質は空性であるゆえに、思考をダルマカーヤとして理解すべし」
と。
「瞑想」するとき、「それ」は知性だ。瞑想するものなど何も存在しない。思考が現われると同時に、それを為すがままにさせなさい。
さまざまな修正をし始めると、通常の思考は迷妄の連鎖反応を作動させる。ゆえに、何も修正してはならない。
あなたが物事をなすがままにさせていないとき、それ自体が迷妄である。
ゆえに、あなたに必要なのは、意識が散漫となることを避けることだけである。唯一の要点は、対象へのフォーカスを一切維持することなく、絶対に意識を散漫にしないことである。
欲深き思考が自ら解放されれば、外的な、欲望の対象(形や音など)も自ら解放される。
「美しい」あるいは「醜い」景色、耳に心地よいあるいは不快な音、良いあるいは悪い匂いや味覚や触覚、喜びと悲しみ、欲望と嫌悪、友と敵、地、水、火、風、そしてその他諸々――要するに何が起こっても、何が現われても、すべてをなすがままにさせておきなさい。
念は、絶対に慈悲から離されてはならない。セッションの初めに、あなたはすべての衆生のために瞑想していると考えなさい。セッションの終わりに、「この功徳によって、すべての衆生がブッダの境地に到達しますように」と願いながら、功徳を回向しなさい。
偉大なるウギェンは言った。
「慈悲がなくては、ダルマの根は腐る。」
これは極めて重要なことである。