すべては神の愛の中
神の意思のもとに、我々は生きている。
これが理解できると、あるいは少しでもその感覚がつかめてくると、こんなに楽なことはないよ。
楽ってのは怠惰っていう意味じゃないよ。非常に積極的に、純粋に、かつ謙虚に生きられるようになるでしょう。
最初はよく分からない。自分は自分で生きているような気がする。そしてね、こうなったら幸福だとか、こうなったら不幸だとか、いろいろな限定条件を自分で勝手に作るんだな。そしてそのなかで、喜んだり悲しんだりしている。自作自演なわけだね(笑)。
しかし本当はそんなもんじゃないんだ。その限定を外したときにね、すべては神の愛であり、否定されるべきものは何もないということに気づく。
しかし勘違いしてほしくないのは、努力するなということではない。努力はしなきゃいけない。この辺が難しいところだね。
【すべては神の愛であり、否定されるべきことは何もない】ということをね、心の弱い人が、言葉通りに受け取ってしまうと、失敗します。単なるね、自己の汚れを肯定する人になってしまう。
精神世界ではよく、「慰めの自己肯定」があるからね。そんなのは誰のためにもならないよ。超えなきゃいけないものは超えなきゃいけない。打ち破らなきゃいけないものは打ち破らなきゃいけないんだ。その努力を全力でした上で、神の愛を感じるんだ。
日本では【人智を尽くして天命を待つ】という良い言葉があるけれど、良い言葉だね。今の自分を超えるために、ある意味では完全な自己否定を、徹底的にし続けるんだ。しかしそれそのものがね、完全なる全肯定のベースの上にあるんだよ。
今の自己を超えるために努力しよう。自分はまだまだだ、と思い、自己の汚れを恥じ、上を見続けること。これを仏教では【ざんき】というね。
しかしね、何度も言うけど、同時にそれは【わたしは常に神の愛の中にいる】という安心感の中にあるんだ。
それはちょうど、コーチを完全に信頼し、喜びと安心感の中でハードトレーニングに励む、一流アスリートみたいなもんだね(笑)。
人生は修行だ、とわたしは思う。そういう意味では自己に甘くてはいけない。慰めの言葉も要らないし、動物的な平安もいらない。自己に厳しく、自己の汚れを打ち砕き、真の神の平安、神の愛を味わいましょう。
この話は前にも、ちょっと違う角度から書いたけどね。今日はまた別の角度から書いてみました。
ところで、今回、【ざんき】という仏教用語が出ましたが、これはちょっと難しい字なのでひらがなで書いてるけど、【ざん】と【き】に分けられてね、このうち【ざん】とは、自分の汚れを顧みて、恥じ、より精進することなんだね。そしてこれはサンスクリット語では「hri(フリー)」というんだ。フリーっていうのは純粋識別智のブッダであるアミターバ(阿弥陀如来)の種字でもあるね。やはり阿弥陀様みたいな偉大な智慧を得るには、常に自己の汚れを恥じ、精進する気持ちが大切なのかもしれないね。
まあ、最後はちょっとこじつけみたいだったけどね(笑)。