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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(5)

◎不生不滅の理

 はい。では次。「また別の法もある。それは、すべては本来生じることがないことを知って、不生不滅の理に安住して動じることがないことである」――これはちょっと難しくなってきたね。あの、「大乗を修め取る法」ってここでありますけど、つまり大乗っていうのは、大乗仏教って何かって言うと、そうだな……いろいろもちろん細かい教えはいっぱいあるわけだけど、大乗の特徴っていうのは「慈悲と空」だね、教えにおいてはね。うん。プロセスにおいてはまたいろいろあるけども、教えっていう意味においては、慈悲と空です。で、ここに書いてあるのをもっと分類するならば、「慈悲とバクティと空」ですね。慈悲とバクティと空。まずは慈悲によって、「わたしはみんなのために生きるんだ!」と。「みんなのために修行するんだ!」――この大いなる菩薩としてのアイデンティティを持つと。そしてバクティね。偉大なる如来、仏陀、あるいは師匠といったものに、完全に自分を捧げ、尊敬し続けると。恭敬し続けると。で、三番目にくるのが、「しかし一切は空である」と。
 で、ここでは、「すべては本来生じることがない」あるいは「不生不滅の理」って書いてあるけども、つまりこれは般若心経とかでも説かれるように、一切もともと――つまり段階的な、一般的な真理では「一切は生じ、滅する」と。これは普通の真理ですよね。無常であると。生じては滅すると。例えば「アーウーンー」もそうですよね。「アーウーンー」っていうのは、「アー」――これは生じること。「ウー」で維持され、「ンー」で滅すると。で、このヒンドゥー教でも仏教でも、すべては生じては滅するんですよっていうのは大前提っていうか、大いなる真理っていわれてるわけだけど、しかし大乗仏教における空の真理においては、「いや、実は生じてないんだよ」と。「生じてないっていうことは、滅してないんですよ」と。これが大いなる真理としてある。これを、なんていうかな、慈悲とかバクティって同時に持つんだね。うん。
 この間、Sさんが質問してきたんだけど、「いや、先生」と。われわれは――つまり今言った話なんだけど、「われわれはもともと真我なんですよね?」と。ね。「この瞬間も真我である」と。「だったら、慈悲とかいらないんじゃないですか?」と。つまりどういうことかっていうと、つまりすべて幻影であって、別にみんな、この段階でも輪廻に落ちてるわけではなくて、この瞬間もみんな真我なんだね。本当はね。で、自分もそうだと。慈悲もいらないし、修行もいらない。だって別に本当は落ちてないんだから(笑)。ね。で、これね、本当はそうなんです、確かに。確かに今この瞬間もわれわれは別に落ちてないんです。真我なんです。だからそういう意味では修行はいらない、慈悲もいらないってなるんだけど、しかし実際問題としては、と言いつつも、本来落ちてないのに、落ちてる錯覚に陥って苦しんでる多くの魂がいるわけだね。自分ももちろんそうです。自分も「おれは真我だ!」って言ったって、この今わたしが、あるいは皆さんが「真我」って言ってるイメージと、本当の真我と全然違うからね。
 つまり皆さんはどういう状態にあるかっていうと、いつも言うけども、目覚めた夢を見てるようなもんなんだね。うん。つまりその、Y君が寝てて、わたしが起こそうとしてね。「Y君起きな! 起きな!」と。で、夢の中で起きたと。「ああ、起きた。おれ寝てたのか」と。確かに寝てたっていうのは真実です。例えばですよ、Y君が寝てて夢見てたとするよ。例えばスーパーマンになった夢見てたと。あるいはなんでもいいけど、なんか夢見たと。スーパーマンになった夢見てて、スーパーマンになった夢のY君が寝言でね、「スーパーマン!」って感じで登場して、わたしが「Y君起きな!」と。「Y君スーパーマンじゃないよ」と。「君はY君だよ」って、こう起こしたとするよ。で、そこでY君が起きなかった。起きなかったけども、夢の中で起きたとするよ。こういうことってよくあるよね。夢の中で起きると。夢の中で、「あ、今の夢だった」と。「おれスーパーマンじゃかった」と。「なあんだ。おれはスーパーマンじゃなくてYだった」って夢の中で思ったとするよ。でも、これ起きてないですよね、本当はね。つまりわたしが揺り動かしたことによって――これは救済なんですけど――救済の力が加わったことによって、自分は寝ていたっていう知識は入ってる。うん。で、起きたっていう知識も出たんだけど、でも実際には起きてないから。だからこれはまだ迷妄なんだね。
 ――つまりですよ、これはだから、ちょっとこう、超越的に考えてくださいね。こういうこと言うと皆さん「え? 何言ってるの?」って思うかもしれないけど、ここに今わたしがいますよね。これ、わたしここにいないかもしれません。つまりその、寝てるみんなを今外側から起こしてるだけかもしれない。それによってこのわたしの像が今見えてると。ね。で、言葉として、皆さんにそれがインプットされてる。で、さっきから言ってるように、「わたしは菩薩なんだよ。真我なんだよ」っていう教えが入ってると。で、それで皆さん、「あ、そうか」――イメージするよね。「わたしは菩薩である」と。「真我である」と。で、しかしここで皆さんがイメージした真我とか菩薩っていうのは、本当に皆さんが目覚めたときの真我や菩薩とは違うんだね(笑)。うん。だからここにギャップがある。よって、それだけ言っててもしょうがない。つまり、「わたしは真我だから……だから別に修行必要ないですよね?」――これは言葉としては真実なんだけど、でも「お前、分かってないだろう」と。その真我をね。分かってないからこういう苦しい世界にはまってるんであって。よって当然、修行が必要になってくる。あるいは救済が必要になる。
 しかしね、今わたしちょっと微妙なこと言おうとしてるんだけど、でも、でもですよ。でも本当はみんな目覚めてるのは真実なんです。っていうことは、ここで何が出てくるかっていうと――ちょっとこれは間違って理解すると危険な教えなんだけど、ベースとしてはですよ、ベースとしては――あくまでもベースね――ベースとしては、どうでもいいんです(笑)。すべては(笑)。ベースとしてはどうでもいいです。
 あるいは、これもちょっと、何度も言うけど、ベースとしてはですよ――あまりこれを錯覚すると、中国やチベットの多くの人が間違った――大乗仏教って危険なんだね。間違う場合がある。だからそれを錯覚しないでほしいけど――ベースとしてはですよ、ベースとしては、善悪もありません。カルマもありません。どうでもいいです。だから、ベースとしては、何やったっていいです、本当は。しかしあくまでもそれはベースです。そのベースの上に、われわれがその夢から覚めるための、しっかりした教えをガンッってこう乗っけなきゃいけない。で、皆さんはそれに則って生きる。
 しかしなんで今、ベース、ベースってわたしが言ってたかっていうと、心の、なんていうかな、本質的なベーシックな部分はもっとね、軽くしなきゃいけないんだね。「本当はどうでもいいんだけどね」っていう(笑)、それがなきゃいけない。「本当はどうでもいいんだけど、でも真剣に、全力で、教えどおり生きよう!」と。でもそのベーシックな部分は、「まあ、どうでもいいんだけどな」と(笑)。本当は善悪もないし、本当は相対的なものはすべてないから、どうでもいいんだけど、でもどうでもいいって言ってたら、わたしもみんなも救われないから、「やるしかねえな」っていう世界なんだね。
 だからまさに「願い」の歌みたいな世界だね、確かにね。つまりその、すべては――あれはまあバクティ的な歌なんで、「すべてはあなたです」て表現してるけど、つまり――だってあれもそうですよね? すべてあなただったらどうでもいいじゃないですか。だってみんなクリシュナでラーマだったら、「じゃあおまかせでいいじゃん」と。ね(笑)。「どうでもいいじゃん」て感じするんだけど、でもそれじゃ駄目なんだね。うん。で、そこで、「あなたの教えを生きる指針とする」って書いてあるわけだけど。つまりその、それがまあ修行のコツっていうかね。うん。だからどっちに偏っても駄目なんだけどね。でもどっちかに偏るとしたら、空じゃない方に偏った方が本当はいいです。つまり「空だ、空だ」て言ってると――これがさっき言った大乗仏教の過ちでね。「空だから何やってもいい」みたいな感じになっちゃって、で、どんどん悪業積んで地獄に落ちると。ね。その人は地獄に落ちても「空だ」って言ってられたら、それはすごい人ですよ、その人(笑)。悟ってるかもしれないね(笑)。地獄に落ちたり、まあ地獄まで行かなくても、今生で悪いカルマ積んじゃってね、すごい苦しんで、ウワーッてなって、でも「空だ」とか「真我」とか言ってられるとしたら、それはすごいよね、逆にね。でも普通はそうならない。当然そこで、智慧もなくなり、あるいは教えとの縁もなくなっちゃうかもしれない。それは大変なマイナスだしね。
 だからこの、今言ってる教えっていうのは、とても――今言ってる教えっていうよりも、大乗仏教っていうのは、微妙なところを含んでるんだね。つまり、空の教えっていうのは、非二元的な、つまり二元を超えた教えであると。でも慈悲の教えっていうのは二元的な教えなんだね。つまりその、「苦・楽」っていうのがあって、苦しんでる衆生を救うっていう二元的な教えです。で、これが、ミックスっていうか、同時に存在するっていうのが、大乗仏教、あるいは密教が高度な教えだっていう――まあ大乗仏教、密教っていうよりも、本来、修行は全部そうなんだけど。そこをちょっと掘り下げてるんですけどね。
 同時に存在するっていうことが、なんていうかな、普通の人ではよく分からない。これはいつも言うけどね、頭の良さとあまり関係ありません。それは皆さん、自分とか周り見てれば分かるでしょ(笑)? 学校的な頭の良さとは関係ないよ。だってカイラスってさ、漢字もあんまり読めない人がいっぱいいる(笑)。

(一同笑)

 わたしさ、もうめんどくさいから全然指摘しないけど(笑)。

(一同笑)

 「何言ってるのかな?」「は? 何? 今なんて言ったの?」っていう(笑)。

(一同笑)

 でもそれなのに、「菩薩行」とかね、「バクティ」とか「空」の教えをある程度、まあフィーリングとして理解できると。それは皆さんの中に、その種子があるからですね。つまり智慧の種子みたいなのがあると。
 だから今日の話みたいのも、まあ完璧には分からなくても、ある程度はこう、つかめる部分はあると思うんだね。うん。だから空の教え、そして慈悲の教え、そしてバクティの教え。これが完全にそろったならば、それは素晴らしいね。でも、もしね、優先順位をつけるとしたら、空はあとでもいいです。うん。失敗するから。間違っちゃうからね。「空だ、空だ」とか言ってると。だから「空」はよく分かんないけども、とにかく衆生への慈悲、そして偉大なる主への完全なる自分を捧げるバクティ。で、まあいつも言う、その裏返しっていうかな、その裏表としてのエゴの放棄ね。エゴがあるとこの二つはできないから。エゴをしっかり放棄すると。そして、エゴを放棄することによって衆生を救うと。そして、自分を完全に主に捧げ切ると。この三つをやりつつ、そしてもし理解できそうならば、空の教えを入れると。
 で、この空の教えの入れ方の、今わたし、伝統的な教えとは全く関係なく、コツを言ったわけです。コツとしては、ベースに流し込むんです。イメージとしてはね。ベースに空の教えを流し込む。だからこれは確かに、まずは空じゃない方をしっかり固めた方がいい。空じゃない方が固まった状態で流し込むんです。固まんないでベースに流し込むんじゃ流れちゃうからね。慈悲とかバクティが間違った空の理解によって流れてしまう。「ああ、じゃあいいんだ」みたいな感じ。じゃなくて、流されない、しっかりとしたバクティと、慈悲の基礎を作った上で、空の流れみたいのをベースに流し込んでいく。そうすると、何度も言うけども、ちょっと心がね、軽くなります。うん。で、固さがなくなるっていうかな。うん。
 もう一回言うけども、この空の教えっていうのは――まあ今日の教えっていうか、いつもそうだけどさ、わたしの教えっていうか言うことっていうのは、客観論っていうよりは、皆さんの心に利益があるかたちで言ってるわけだけど……いいですか?――「どうせ、おれたち真我だ」と(笑)。「どうせおれたちはもともと、あの『アシュターヴァクラ・ギーター』とかにも書いてあるように、もともとけがされたことがない、完全な魂だ」と。ここにいる全員がですよ。ここにいる全員どころか、地球、あるいは宇宙の全魂が、本来は全くけがされていない、純粋な魂だと。この世はすべて夢であると。よって、そもそもどうでもいい。だから何も悩むこととか、あるいは不安がることとか、一切ないんだね。一切ない。そのベースの上に、今まで学んできたバクティや慈悲行を全力でやる。ね。これができたならば、皆さん、この短い与えられた今生の人生を最も有意義に全力で駆け抜けられるだろうね。うん。これがまあ、ちょっと難しいけどね、空の教え。
 これは、もう一回言うけども、別によく分かんないなっていう人はそれでかまわない。それはちょっと置いといて、しっかりと慈悲や、あるいはバクティを固めたらいいね。うん。でも今日わたしが言ったことがなんとなくちょっと理解できそうな人は、もう一回言うけども、そればっかりではちょっと危険だけども、それをちょっと自分の菩薩行のベースにちょっと流し込むような感じになったらいいね。それが実際的になってくると、本当に強い菩薩になれるかもしれない。強い菩薩っていうのは、なんていうかな、まさに自分の使命だけに生きられるっていうか。
 あの、この空の教えが、エゴの理由付けとして利用されちゃ駄目なんだよ。逆にエゴを省みない理由になったら、とてもいいね。うん。「空だからいいじゃないですか」と。ね。自分は頑張ると。で、自分がなんかこう、例えば誤解されたり、馬鹿にされたり、何か苦しいことがあったとしても、「でも空ですから」と。「真我ですから」と。うん。それは別に全然なんとも思わないと。あるいは何かこう不安が生じたとしても、「でも真我だから関係ないですよね」と。でもやることはやるんだよ。で、このやることっていうのが、まさにバクティ的に言うと、「神の道具として身をまかせる」っていうかな。
 この辺はだから、ただ教えとして学ぶんじゃなくて、皆さんが日々の実践というか、生活の中で実践してみてね、自分の人生そのものを、今わたしが言ったようなかたちで考えて、まあだんだんこう、体得していかなきゃいけないっていう教えですね。

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