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解説「ナーローの生涯」第九回(2)

◎どこにも何の現実もない

 はい、そして、「中有である心の鏡を見つめなさい」と言って、中有のヨーガの教えを伝授しましたと。
 この中有のヨーガっていうのは、皆さんもよく知ってるバルドのヨーガね。バルドのヨーガ。バルドっていうのは――これは六ヨーガの本をね、ここで出してるのでそれをしっかり読んでもらったらいいと思いますが。一般的には死後の世界のことをバルドって言うわけですけども、実際はこれもいつも言うように、死後の世界だけではない。例えば夢の世界も、これはバルドであると。つまり中有っていうのはこれは「中間の存在」っていう意味なわけですけども、一般的には死と生の中間――つまり死んでそれから生まれ変わるまでの中間の状態を中有、バルドっていうんですけど、それだけじゃないんだね。例えば寝て目覚めるまで。つまり寝てから目覚めるまでの中間。これを夢のバルドと言います。それからサマーディに入って目覚めるまでの中間。これをサマーディのバルドというね。
 夢のバルドが一番分かりやすいかもしれないけど、つまりバルドって一体何なのかっていうと、まさに――ここに「心の鏡」って書いてあるけども――心のあらわす幻です。心のあらわす幻。夢なんかそうでしょ、夢。ここでいつも言うように、夢には二つあります。一つは普通の夢。もう一つは光明の夢。この光明の夢とはちょっと違います。光明の夢っていうのはバルドではなくて、まさにわれわれの心の本性、あるいはいってみれば至高なるクリシュナとか仏陀とか、あるいはその人のグルとか、そういった至高なる場所からやってくる夢なんだね。これは、例えばその人に示唆を与えてくれたりとか、あるいは何か修行のプラスになるようなきっかけを与えてくれたりとか、そういう夢ですね。これが光明の夢。これは修行者が見る夢ですけども。じゃなくて、普通の夢っていうのは、これはもう単純に心の中の記憶のあらわれに過ぎないんだね。つまり心の中に眠ってる情報がね、日々入れてきたいろんな情報や経験がストックされているわけですけども、それが無造作に夢の世界でブワーッと現われると。これがバルドであると。
 夢っていうのはもちろんそういうもんだよね。皆さんも分かると思う。例えば簡単に言うと、昼間いろんなね――例えば子供の頃とか友達と――そうだな、ちょっとわたしは時代が古いけど(笑)、小学校の頃とか友達と仮面ライダーごっことかすると。ね。あ、今も仮面ライダーってあるんだよね(笑)。仮面ライダーごっことかすると。バーッて一日中仮面ライダーごっこで遊んだとしたら、その印象あるいは心の強い思いが残っていて、夢の中でも仮面ライダーになるかもしれない。でもそれはその人が前生仮面ライダーだったとか、そういう意味じゃないよね(笑)。つまり、起きているときに強い印象――「おれは仮面ライダーだー!」って感じで楽しく遊んだ印象が心に残って、それがバーッと夢の中に出てきたに過ぎない。ね。あるいは例えばそうだな、テレビとかもそうだね。ある種のテレビをずーっと見て、それを本当に楽しいなっと思って食い入るように見たりすると、その内容がね、まるで自分がその内容を経験しているかのような感じで夢に出てきたりとか。つまりこれはすべてその人の心のカルマというか、心の情報が、夢っていうね、一つのストッパーを外されたときの状態でバーッて出てきてるに過ぎないと。
 で、死後のバルドももちろん同じなわけですね。死後も、生きてきたときのいろんな印象やデータが、バーッてこうおもちゃ箱をぶちまけたかのように、バーッて出てきていろんな幻影に苛まれるのが、死後のバルド。
 で、もう一つ重要なのが、生から死にかけてのバルド。つまり死んでから生まれるまでの中間ではなくて、生まれてから死ぬまでの中間状態。つまり、普通にわれわれが「わたしの人生」とか「現実」っていっている今この瞬間も含めた、生まれてから死ぬまでのこの物語。これもバルドなんだって言ってるんだね。
 つまりもう一回言うよ、夢の世界――これは起きてるときの印象がぶちまけられた幻に過ぎない。これはよく分かる。同じように死後の世界っていうのも、生きてたときの印象がぶちまけられた幻影に過ぎない。これもよく分かるね。で、同様に、今われわれが生きているこの人生も、過去世までの印象がぶちまけられてる幻に過ぎないんだっていう考えなんだね。
 だからそれがここで出てくる「バルドである心の鏡を見つめなさい」と。つまり夢もそうだし死後もそうだけども、この人生自体がもうバルドなんですよと。それに早く気づきなさいと。どこにも何の現実もない。何の実体もない。まさに夢見ているようなもんなんだね。
 だから夢のヨーガでよく、まず第一段階、自分は夢を見てると気づきなさいっていうけども、それと同じことが現実世界にもいえる。われわれは今現実を生きてるような感じがするんだが、これが実は夢なんだって気づかなきゃいけない。
 でも、まずそれは本当に気づくのはちょっと難しいです。難しいっていうのはもちろん、できるけど時間がかかるってことです。
 気づいたって思い込んじゃいけないよ。気づいたって思い込むと、それは単純に夢の中で夢だと気づいてる夢を見ているだけになる(笑)。ね。こういうことってよくあるよね? うん。わたしよくあるんだけど、例えば夢の中で、「ん!? これは夢である」ってなって――それはそれでいいんだけど――空を飛んだりいろいろやって、「ああ、夢だった!」って終わって、「あー」って起きるんだね。そしたらそれも夢だったりするんだね(笑)。「あ! 結局夢だったのか、これ自体が」と(笑)。
 だから、夢の中で気づいた夢じゃ駄目なんだね。じゃなくて本当に気づかなきゃいけない。ただそれはなかなか難しい。難しいけども――本当に気づいたら、世界の見え方がまったく変わります。だからそこまではいけてないんだが、でもまず知識として頭に入れて、この世の中すべてを「いや、これは夢である」と。「まさに夢なんだ」と。「夢である。魂が見ている夢なんだ」っていう感覚で見ることは、皆さんにとってとても修行のプラスになります。これはわたしも一時やってたことあるけど。
 あの、修行っていうのはさ、日々こうやって座ってやる修行じゃなくて、日々やるイメージっていろいろやることがあって大変なんだよね(笑)。例えば、すべてを神の曼荼羅と見なさいとか、あるいは日々年がら年中トンレンし続けなさいとか、あるいは日々すべてをクリシュナの現われと見なさいとか、いろいろあるよね。だからその中のどれか好きなのを選んでやればいいんだけど、この「すべてを夢だと見る」っていうのはとてもいい見方です。これは別にこれ以上の秘儀はない。もうこれだけです。すべてを夢だと見ると。それは皆さんの感覚でね、今のこの言葉を受け取って、日々やってみたらいいと思う。すべては夢なんだと。
 例えばこう歩いててもね、いろんな風景が見えてくるだろうけど、「あ、これ夢だ」と。「これ夢なんだよな」みたいな感じでね(笑)、「おれ、今夢見てんだよな」と。ね。
 で、夢っていうのは――皆さんが寝てて、これ夢だって気づいたときっていうのは、その夢のつじつまの合わなさとか、あるいは非合理的なところとか、それをありのままに受け取ると思うんだね。どういうことかっていうと、夢の中で本当に有り得ないようなことが例えば起きたりすると。例えば夢の中でTさんが男だったりすると、普通は「あれ、なんで男なの!?」ってなるけど、「まあ夢だからね」みたいな感じになるよね。あるいは場面がいきなりパッて変わったとしても、「まあ夢だから」みたいな感じになる。それと同じ感覚を、この世界にいつも持つようにするんだね。つまりもうガチガチの、「これはこうでなきゃいけない」っていうのをすべて捨てて、すべて非常にあやふやなつじつまの合わないイメージのあらわれみたいなものなんだから、いきなりなんかすべて変わっても全くおかしくないっていうか。
 あるいは――例えば子供の頃ってさ、子供自体が無智だからっていうのがあるかもしれないけど、よく不思議なことってあるよね。不思議なことってさ――ちょっとくだらないことしか思い出せないんだけど、わたし小学校の頃友達とワイワイして歩いてたら、ある大人のね、男の人が前を歩いてて、で、その人を追い抜かしたんだね。ワーッて追い抜かしたんだね。で、しばらく歩いてたらまたいたんだね(笑)、前にその人が(笑)。で、それはちょっとこっちも怖いんだけど面白がって、「あれ!? あの人さっきいなかった!?」とか言って、「うわー!!」ってみんなで逃げてった覚えがあって(笑)。それは半分楽しんでただけなんだけど、でもまあそういうことがあったわけだけど、普通はそれは、もし本当にそれが勘違いじゃないとしたら、「え? そんなことないでしょ」と。多分すごく似た人なんだとかね、そういう感覚だろうけども、そうじゃなくて「ま、それもあるでしょう」と。ね。つまりすべては幻影に過ぎないから、例えばそこに実際に男の人が本当にいて、追い抜かして、今後ろにいるっていうこんな現実はないんだと。つまりすべては夢だから、まさに今目の前に現われたと。目の前から去っていったら、もうそれは、わたしの感受してる情報の世界からもう消えてるわけだから。それがまた次の瞬間前に現われたとしても、何もおかしくはないと。そういう世界のガチガチの枠組みをね、ちょっと外したような感覚が必要なんだね。そういう感じですべては夢であると見ると。これは一つのいい修行になるね。

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