yoga school kailas

サンニャーサ・ヨーガ


「サンニャーサ・ヨーガ」
2007.1.31

◎真の離欲・放棄とは

【本文】
『アルジュナは言った。
「おお、クリシュナ様! あなた様は、初めに放棄をせよと私におっしゃり、次には奉仕の精神で行為せよと勧められました。
いったいどちらが本当に正しいのか、ハッキリとお示しください。」

至高者はこうお説きになった。
「放棄も、カルマ・ヨーガも、ともに人を解脱させる。
だがこの二つのうちでは、行為の放棄よりも行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)の方が優れている。

行為の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は、常に離欲・放棄を行じていることになる。
その人は二元対立を超え、たやすく物質界の鎖を断ち、完全なる自由を得ることができるのだ。おお偉大なる勇者よ!」』

 これはまず、サンニャーサ・ヨーガ。「サンニャーサ」ってこれ、放棄とかいう意味ですね。出家した修行者をよく「サンニャーシン」とかいいますが、サンニャーサ――放棄。つまりサンニャーサ・ヨーガ。放棄のヨーガ。
 ただここでいう放棄のヨーガっていうのは――最初にクリシュナが言っているのは、『行為の放棄よりも行為のヨーガのほうがすぐれている』と。ここでいう「行為の放棄」っていうのは、文字通り「何もしない」っていうことです。つまり、修行だといって一切の行為をやめ、人から離れ、まあ、山にこもって何もしない。これはこれでまあいいと。これは一つの道だと。それよりも、カルマ・ヨーガの方が優れているんだよと。で、ここでいってるカルマ・ヨーガっていうのが、結果的にいうと、全てを放棄して行為に励むヨーガだと。だから、この「サンニャーサ・ヨーガ」っていう題名がついてますが、ここでいうサンニャーサ・ヨーガっていうのはイコール、カルマ・ヨーガといってもいいね。
 だから、これはあの、いろんなヨーガの名前がバーッて出てきますが、実際はだいたいカルマ・ヨーガのことをいってる場合が多いね。
 はい。そして『行為の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は、常に離欲・放棄を行じていることになる。』と。
 つまり、単純に何もしないことが、離欲――欲から離れる、放棄じゃあないんだと。
 行為をして、例えばそれによって自分の望む結果が得られようが得られまいが、あるいは、行為の結果として嫌なことが来ようが、自分の好きなことが来ようが、一切とらわれずに行為すると。これをしてる人っていうのは、行為をしながら全てから離れてるんだと。で、このようなことをする方が、たやすく『その人は二元対立を超え、物質界の鎖を断ち、完全なる自由を得ることができる』と。
 これはもう、いつも言ってることですね。つまり何もしないで静かに心を静めることは簡単だが、実際に静まってんのかって問題がある。条件によって静まってるけども、じゃあ条件を変えられたら動き出すじゃないかと。そんなんじゃしょうがないってことだね。
 だから、例えばいろんな活動をしながら、一切その結果とか、あるいはそこで生じるいろんな現象にとらわれずに、ただなすべきことを淡々となすと。この方が早く悟りに近づくんだと。だからこれもすごく、何ていうか、大乗的な見解だね。つまり、人から離れてお寺とか山にこもって、うーって瞑想するよりも、人々の中に入って、その中で――人々の中に入りゃいいってもんじゃないんだけど――この生活の中で、あるいは日々のいろんな――まあ例えばそれは奉仕活動でもいいし、何でもいいんだけども――その中で、一切心を動かさない訓練をした方が、早く解脱・悟りに到達するんだよと。
 これがサンニャーサ・ヨーガであり、またカルマ・ヨーガでもあるね。

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