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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(11)

◎不浄観

【本文】

 不浄観については、ラトナメーガには、こう説かれている。

「この身体は、頭髪、爪、歯、汗、排泄物、皮膚、肉、骨、筋肉、神経、腎臓、心臓、脾臓、肺、他の内臓、腸間膜、胃、胃の中身、肝臓、糞便、涙、汗、胆汁、鼻汁、脂肪、リンパ液、骨髄、粘液、膿、血、脳、粘膜、尿などで構成されている。
 これらの身体を菩薩は自然に観察する。
 たとえ愚かで能力がない者でも、これらの構成を一度理解すれば、身体への貪欲は起こらないであろう。まして聡明な人は、この身体に愛着を持つはずがない。」

 また、ピトリマートリシュクラショーニタサンバヴァ(父母膿血和雑生経)には、こう説かれている。

「この身体は、父の精液と、母の子宮の血とから成り立っている。この身体があることは、父の精液と、母の子宮の血とが、第一の原因である。
 そして第二の原因は、食物等を消化することである。
 食物が口に取り入れられると、まもなく食道を通って胃に入る。そこでは膵臓(すいぞう)から出る膵液が、食物を、吐き気を催すような柔らかい物質に変える。
 さらに胆汁が消化を助け、そのある部分は消化されてラクタ(乳糜(にゅうび))となり、ある部分は大小便や汗となって排出される。
 ラクタは血に変わり、血は身体を作り、肉となり、脂となり、骨となり、骨髄となり、精液となる。
 このように、これらの身体の第一と第二の原因は、ぞっとするようなものである。それゆえに、菩薩は身体に関して不浄観を観察すべきである。

 人はこのような不浄の集まりである身体に大変誇りを持ち、その大きな倉庫を保っている。いわばそれは、便器を持ち歩いているようなものである。
 彼の鼻からは鼻汁が流れ、口からはいつも悪臭が出る。
 目からは目やにがじくじくと流れ出る。
 誰がこのような身体を望み、誇りを保つべきであるか。
 たとえば、間違った概念と固定観念によって、愚か者が炭を拾い、それを磨けば光ると考える。炭は光るどころか、こすればこするほど崩壊する。
 同様に、人は『私はこの身体を清浄にしよう』と考える。たとえ風呂に入り、身をこすり、何百回とにおいをかいでも、死によって打ちひしがれ、崩壊し、悪臭を放つ死体となる。」

 はい。これもパーッと簡単にいきますが。不浄感――この不浄感っていうのは、まず有身見といわれる、自分の肉体に対するとらわれっていうのがあるんだね。で、これは簡単に言いますよ――ちょっと時間がないのでパッと言いますけども、われわれを地獄に落とすカルマです。なぜ地獄に落とすかって言うと、最も粗雑な肉体に対して自我意識を持つ――これがわれわれの落下の終着点なんだね。こんなものまで「わたし」という感覚を持ってしまったのが今のわれわれなんです。これが強まるとわれわれは地獄に落ちます。まあ地獄に落ちないまでも、少なくともわれわれのこの粗雑なボディがある世界に結び付けられてしまう。だからまずわれわれはこの自分の粗雑なボディへの執着を離れなきゃいけない。
 で、もう一つは、他人の肉体。性欲っていうのは当然他人の肉体への執着だから、これも不浄感によって、他人の肉体も汚いんだってしっかりと認識することで、性欲から離れるわけですね。そのために伝統的に仏教ではこの不浄感っていうのをやってるわけだけども。その第一にあるのが、まずここに書いてある、「この身体は、頭髪、爪、歯……」っていういわゆるその解剖学的な瞑想です。これは伝統的にこういうのがあるんだね。伝統的に自分の身体の構成を瞑想していくと。
 ただね、これ、わたしのちょっと経験だけども、わたしの経験、もしくはいろんな人にやらせた経験としては、現代ではあんまりこれは効かないかなっていう感じがする。っていうのは、結構知ってるから、みんな。解剖学的なことをね。そんなの分かったうえで、性欲持ったりとか、分かったうえで自分の体に執着したりしてるから、あんまり、「爪、歯……」ってやっても(笑)、

(一同笑)

「え? それがどうしたんですか?」って(笑)。だからここはあまり効かないかなっていう感じもする。
 で、後半の方が結構強烈だね。後半もちょっとこれリアルにパッといきますよ。いいですか? 考えてみましょう。「この身体は、父の精液と、母の子宮の血とから成り立っている」と。これが身体の構成の第一原因であると。これ何を言ってるのかって言うと、リアルに考えてみましょう。あんまり考えたくないことかもしれないけど。はい。まずお父さんを思い浮かべてください(笑)。皆さんのお父さん。皆さんのお父さんの精液があります。皆さんのお父さんが精液漏らしちゃいます。精液ね。触りたくないよね。まずね。触りたくもない。っていうか考えたくもない。お父さんの精液(笑)。よく考えてね。お父さんの精液なんて考えたくもないし、触りたくもないし、もちろん匂いなんて嗅ぎたくないし(笑)。っていう感じだと思うんだね。で、もう一つはお母さんの子宮の血。ね。お母さんの子宮の血ってもしあるとしたら、それもなんか嫌だよね、当然ね。でもそれでまずわれわれのボディができてるんです。お父さんの精液と、まあ言ってみれば、お父さんの精液とお母さんの子宮の血がグジャグジャに混ざり合って、われわれの体ができてますよと。で、これを美化すべきではない。現代の西洋的スピリチャルとかでは、すごくそういうところを美化するよね。「お父さんの精子がすごい確率でたどり着き……」みたいなことを言うけども、それは美化しすぎです。うん。仏教とかでは決して美化しない。精液は汚いと。はっきり言ってね。だって皆さん潜在的にそう思ってるでしょ? 精液は汚いと。汚いっていうか、人の精液なんて触れたくないと。あるいは女性の経血っていうかな、それも非常に不浄なものであると。あるいは触れたくもないと。で、それが混ざり合ってできたのがこの体だと。まずそれを認識しなきゃいけない。だからこの体は決して神聖なものでもなんでもない。非常に雑な構成でできたものにすぎないと。
 で、二番目に、もう一つが――それはスタートはそうだったんだけど、じゃあ日々こうやってこれを新陳代謝によって維持されてるのは何によるんだと。それは当然食物ですよね。で、食物っていうところに注目すると、まあ悪くはないかもしれない。例えば米とかね。例えばこういう果物とか見たら、まあいいよね。でも次の段階があるわけだね。つまり食べて胃に入った段階で、まあいってみれば、じゃあ胃に入った物を吐きだしたらどうなりますか? 当然、触るのも嫌な嘔吐物になるよね。で、この嘔吐物ってさ、嘔吐したから嘔吐物っていうけども、嘔吐しなかったらここ(胃腸)にあるわけですよね。で、この嘔吐物がわれわれの体になるわけでしょ? これ面白いよね。例えばY君がウワーッて吐いたとするよ。で、吐いたら嫌じゃないですか、当然。「うわ! なんだこれは!」と。「触りたくもない」と。で、これでできてるんだよ(笑)。これがわれわれの体を作ってるんですよ。うん。わたしの嘔吐物もY君の嘔吐物もほかの人の嘔吐物も大差ないからね、当然ね。何食ったかの違いによって、大差ないわけだけど。例えばわれわれが横浜の街とか歩いててね、あるいは新宿、歌舞伎町とか歩いてて、よく嘔吐物があると。「誰か吐いたな」と。「うわ!」――で、それでできてるんだよ、われわれの体って(笑)。これを何度も何度も認識する。つまりこの体っていうのは、そんなもんなんだと。だから自分の体っていうのは、その、執着するようなきれいなものじゃないし、あるいは自分が執着してる異性の体っていうのもそんなものなんだと。
 解脱した聖者は別です。解脱した聖者は仏教ではよくニルマーナカーヤっていって、まあチベットではトゥルクっていうわけだけど。そのトゥルクっていうのは、自分の体は他の人の肉体と全然変わらないように見えるけども、実際には例えば虹の身体っていって、もっと微細なものでできてるんだっていう話をするので、例えば皆さんが好きな聖者とかね。そのことはそういうふうに見ちゃ駄目ですよ。例えば、「ラーマクリシュナの体も嘔吐物で……」とかじゃなくて(笑)。いや、皆さんのそれは信仰で考えてください。皆さんが好きな、例えばラーマクリシュナとか、ラヒリ・マハサヤとか、ババジとか、ああいう方々は違うんだと。あれはもう光の身体なんだと。そう思ってください。でも自分の体。あるいはその辺を歩いてる普通の人の体っていうのは、嘔吐物でできてると。あるいは、スタートはただの精液と経血の混ざり合いだと。そういうその見方、観想をするんだね。
 はい。そしてもっと言うならば、まあこれもいつも言うけどね、「便器を持ち歩いているようなものである」と(笑)。

(一同笑)

 これ面白いね、この表現(笑)。いつも便器持ち歩いてると(笑)。これ笑っちゃうよね。しかもお腹の中に持ち歩いてるわけだから。便器を持ち歩いてて、しかもお腹の上の方には、嘔吐物を入れる袋を持ち歩いてると。で、下の方の前の方には尿を――まあ尿瓶を持ち歩いてると(笑)。で、奥の方には便器を持ち歩いてると。これがわれわれの構成であると。で、それだけじゃなくて、目やに、鼻汁、痰とか、膿とか、そういったもので満ちてると。その一つ一つを見たら当然汚いと。それ全部含まれてる、含まれてるっていうよりはその製造元(笑)。それがこれなわけだから。この肉体なわけだから。それをしっかり考えなきゃいけない。
 で、ここに書かれてるように、炭をいくら洗ったって白くはならない。ね。だからこの体をきれいと錯覚して――まあいつも言うけどさ、日本人はすごい清潔好きなので、毎日お風呂に入って、きれいにして、自分はきれいだと錯覚するわけだけど。ほっとけば汚くなる。つまりほっとけば汚くなるっていうのは、そもそも汚いっていうことです。ね。これがわれわれの正体だと。あるいは他者の、つまり自分が執着する異性の正体もそれだと。それを何度も何度も考える。これはまあこの利益のあるかたちの不浄観ですね。それによって、もう一回言うけども、まず自分の体に対するとらわれをなくし、そして他者の体に対する性欲とか執着をなくすと。もちろんこの肉体っていうのは、神の道具として使わなきゃいけないから、そういう意味では大事なものなんだけどね。でも道具だから、ただの。道具だからとらわれてはいけない。とらわれずにただ使うと。

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