「王のような秘密の智慧」
2007.3.28
バガヴァッド・ギーター
第9章「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」
◎王のような秘密の智慧
はい。今日はバガヴァッド・ギーター九章ですね。九章はちょっといつもに比べて短いですが、「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」という題名がついています。この九章に関しては、これまで説明してきたこととあまり変わらないね、書いてあることはね。そのまとめみたいな感じになっています。ですからこの解説は、若干自由な感じの解説をしていきたいと思います。
このバガヴァッド・ギーターにはいろんなことが書かれているんですが、根幹となるのはやはりカルマ・ヨーガと、それからバクティ・ヨーガの教えですね。
カルマ・ヨーガっていうのは簡単に言うと、自らに与えられた義務――というかな、神の意思といってもいいけども――なさねばならぬことを、一切の成功にも失敗にも心を奪われず、あるいは恐怖も期待も持たず、ただ全力で行ないなさいと。これがカルマ・ヨーガの根幹的なことだね。
そしてバクティ・ヨーガに関しては、これもいろいろ書いてありますが、その根幹は結局その――ここではクリシュナっていう名前なんだけど、この宇宙の唯一の実在があると。それはバガヴァーンとかクリシュナと言ってもいいんだけども、別の名前でもいいんだけどね。シヴァでもいいし、ヴィシュヌでもいいんだけど。その唯一の存在があって、あらゆるものはそのあらわれに過ぎないというかな。そこから発されるものに過ぎないんだと。つまり、クリシュナっていう偉大な神がいて、いろんな神がいる中のそのトップですよ、ベストですよ――っていう意味ではなくて、「それだけ」なんだと、この宇宙はね。この宇宙には、ただ完全なる唯一の神がいるだけなんだよと。そこからすべて現われているだけなんだよっていう、ちょっとこう究極的な真理がある。
もう一つの主張は、その究極の真理といえる究極の神の化身の存在だね。これを説いているのが、このバガヴァッド・ギーターの一つの特徴だね。
化身っていうのはアヴァターといって、この宇宙の完全なる実在みたいなものが、人々を正しい方に導くために人間の姿――人間っていうのは、カルマによって限定された存在に過ぎないわけだけど――一個の人間の姿として、この世に現われるんだよと。それが今のね、この二十一世紀の現代に現れているのか、これから現れるのかは別にしてね。ある時代ある時代に現われるんだと。
例えばクリシュナであるとか、あるいはチャイタニヤっていう人もいたんだけど、この人もそうだったといわれる。あるいはラーマクリシュナもそうだったといわれるけども。そういう感じで人間の姿をして、完全なる宇宙の本質みたいなものが現われるんだよっていう思想がある。これがこのバガヴァッド・ギーターの中の、バクティ・ヨーガに関する教えの中で繰り返し説かれていることだね。
この九章においても、バクティ・ヨーガの今言った二つのことがね、また改めて説かれているという感じですね。
「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」っていうのは――まずラージャというのは「王様」という意味ですね。よくマハラジャって言うよね。「マハー」というのが「偉大な」とか「大きな」っていう意味なんで、だからマハラジャって、語呂がいいけど、本当はマハーラージャっていって、マハーは偉大なる、ラージャは王様だから、「大王」っていう意味だね。実際は王っていうよりも、インドでね、昔の王の名残なのかもしれないけど、その地域で権力を持ったお金持ちをよくマハラジャっていうんだね。昔は実際に一国を支配していた人たちをマハラジャって言ったわけですが。そのラージャ。で、「ヴィディヤー」というのは、これは無明の反対で「明」とか「明智」とかいうやつですね。「グヒャ」というのは「秘密」っていう意味があります。だからこれは直訳すると、「王の明智、王の秘密」という意味になりますが、実際はこれはもうちょっと意味をとると、「王」っていうのはつまり、それだけものすごい偉大なるっていう意味だね。「王のような秘密の智慧」みたいな意味だと思いますね。教えの中にはいろんな秘密やいろんな智慧があるけども、その中でも王のような、つまり最高の神秘なる秘密の智慧を明かしましょう――というのが、この九章だね。でも実際は、内容としては、さっきいったバクティ・ヨーガの精髄をまとめているような感じがあります。
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